カテゴリー「説教要旨」の記事

2016年10月 9日 (日)

隔たりを越えて

 (ルカ17:11-19,2テモテ2:8-13,列王下5:1-14)
 かつて「らい病」と言われていた皮膚の病があった。現代では「医療や病気への理解が乏しい時代に、その外見や感染への恐怖心などから、患者への過剰な差別が生じた時に使われた呼称」としてハンセン病などと称されることが多い。新共同訳聖書でも「重い皮膚病」と呼称が替わっているが、そのことによって却ってこの病いの深刻な問題が隠されてしまったのではないかと危惧されている。差別は依然として存在するからである。
 ユダヤ人とサマリヤ人の間にも歴然とした差別があった。かつてイスラエルが北と南に分かれた時、北王国は異教徒と融和政策をとり、その結果他教徒との結婚が頻繁であったが、南王国はこれを異教徒化したと非難し、それから北王国に属していたサマリヤの人々と交流することはなくなった。
 日課は病いと民族という二つの背景を抱えた状況の中で語られている。実は5章にも同じ病いの人の癒しがあるが、それは純粋に病いの癒しの記事と考えて良い。同じ病いからの癒しであっても、違いをみるとルカが意図していることが分かる。
 違いの第一の点は、10人の人は遠く離れて(40~50m)叫んでおり、イエスに近寄ったのは清くなってからであった。ただし、9人(律法を第一に守ろうとするユダヤ人たちであったと思われる。)は戻ることもなかったようである。第二の点は5章では癒されたことを黙っているようにと言われたが、ここでは賛美して戻ってくるのをイエスはお止めにならなかったということである。20161009
 遠くから叫んだのは、恐らく近寄ってはならないという律法があったからであろうし、戻らなかったのは「清くなってから一週間は確認のために隔離される」(レビ記13~14章)という律法があったからである。彼らは「感謝」よりも規定に従うことを選んだのであり、同時にサマリヤ人と共に生きることではなく、彼と離れてユダヤ人として厳格に生きることを選んだということにほかならない。癒された喜びはあっただろうが、それ以上に清くなったのに直ぐに動くことで、再び罪人とされることを恐れた彼らは、その意味で本当には解放されていないと言っても過言ではない。一方サマリヤ人はその律法を越えることによって(自由な振る舞いによって)、病いだけでなく罪からも解放されたのである。感謝する心は律法を越えたものであり、人が自由とされた時の姿勢ともなるが、律法はそれを妨げようとする力が働くのである。病いがユダヤ人とサマリヤ人隔たり越えさせたが、癒されることで再び隔たりが生じてしまったのである。
 あらゆる隔たりを越える力が信仰にある。信仰によって全ての人が救われることを、神は今も願っておられる。

2016年10月 2日 (日)

共に生きるために

 (ルカ17:1-10,2テモテ1:3-14,ハバクク2:1-4)
 「信仰を増してください」と使徒たちがイエスに願ったとある。どういう意味であろうか。この願いの前に、厳しい教えが語られている。だからその教えを守るには、今の自分たちの信仰では無理だという叫びであるのかもしれない。そのことは私たちも経験する。くずおれそうになるとき、不安や恐怖に襲われる時、迷いが生じた時、立ち向かうために信仰を増してくださいと願う。
 弟子たちは何があったから「信仰を増してください」と願ったのだろうか。日課の最初に二つの戒めがある。共同体の調和を乱す二つの困難があり、一つはメンバーの全てが成熟しているわけではないということから生ずるものである。信仰生活はそれぞれに違うし、成長過程も違う。成熟したメンバーの言動が、「つまずきを起こさせる原因となり、罪を犯すよう誘惑することになる」から気を付けて振る舞うことが勧められている。つまり神との関係を求めているものに対して、どのように振る舞うべきかということであり、自由の法よりも高い位置にある法があってそれは愛の法だということにほかならない。
 第二のことは、弟子たちが他の者に対して罪を犯すときに発生する問題であり、共同体のメンバーが他の者を滅ぼすことがあるのだから、そのためには他の者への責任ある対応、つまり愛が有効なのである。愛は、「正すために戒め、赦す。たとえそれが一日に7回繰り返されても。これもまた成熟したクリスチャンのこと」である。だからこそ弟子たちは信仰を増してと願ったのであった。
 イエスがお応えになった中に「もし」という言葉がある。①事実と異なる状況を表すこと、②事実に沿った状況を表すことという意味があるが、6節はこの後者である。「あなたは信仰をもっているのだから」と訳せる。つまりイエスは信仰がないことを厳しく咎めているのではない。彼らがもっている信仰を肯定し、その信仰の可能性を十分に生かすことを勧めるのである。彼らが既に得ている小さな信仰が働けば、海の中に木を植えることことを「ばかげている」と言わなくなるし、神の力に拠り頼むとはまさに「人の思いを越えて働いてくださること」を信じることに他ならない。神が与えてくださる信仰には、大小の違いなどありえないのであって、それが使徒(私たち)に生きる力をあたえてくれるのである。20161002_2
 最後に使徒の生き方について奴隷と主人の関係で述べられる。奴隷の時間と労働はその主人のものであり、満期の期限も存在しない。何よりもイエスご自身が仕える者として私たちの許に来られたのだから、彼に従う私たちも信仰によって仕える者になれると語られている。

2016年9月 4日 (日)

旅立つ前に

 (ルカ14:25-33,フィレモン1-25,申命記29:1-8)
 熱心な群衆に囲まれているイエスだが、彼らの熱心さは自分のためであった。その熱心さは群衆となることによって、今や熱狂的なものとなっていた。だから、イエスが十字架へと向かっていることに12人の弟子たちも含めて人々は全く気付いていない。そんな群衆を見たからこそイエスは彼らに問いかけようとされている、「私の弟子になるということはどういうことか分かるか」と。
 熱心さは大切なものを見失わせる。かつてモーセが十戒をもらうために山に入った時、しばらく戻ることがなかった。人々はモーセが死んだと思い込み、「金の子牛」を造り出し神として崇めようとした。つまりイスラエルの民は「神に従っているモーセ」ではなく「人としてのモーセ」に従っていたので、新たな導き手(金の子牛)が必要だったのである。人々の熱心さは、本当に見つめなければならないものを見失わせてしまう。今、イエスの後に従う群衆も同じ状況にあったからこそ、「あなたがたは自分が何をしているのかを考えなさい、あなたがたは私とずっといるつもりなのかどうかを決めなさい」という思いを込めて、家族や自分の命を賭しても良いのかと問われている。その際、「憎む」という言葉が用いられているが、私たちが理解しているような意味であるなら、「自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています。」(1テモテ5:8)という呼びかけを破棄することになる。また、自分の命を憎むことは、自己を嫌悪し、自らを虫けらと見做し、自分をこの世のごみの山に投げ出せという呼びかけではないことも明らかである。何故なら私たちには自分を裁くようなどんな権利も与えられていないのであり、自らの意志で自分の命の判断をすることはできないからである。では「憎め」という命令をどのように解釈したらよいのだろうか。
 ここで要求されていることは、キリストと福音の要求が他の事柄に優先するということであり、それによって優先順位が変わることを求められているのである。換言すれば、憎むとはイエスを一層愛するということに他ならない。
20160904  イエスに従うことは代価を払う必要がある。その譬えが「農民が畑を荒らす動物を見張るための塔をつくる」時のことや「戦争に臨む際の王家の在り方」なのである。彼らは「これは私が払いうるものだろうか、あるいは進んで払うだけの値打があることだろうか。」と問うように、弟子になる場合にも同じことを問うべきなのである。キリスト者として歩みを始める前に、そして今日一日を始める前に、キリストに従うことを優先とする一日であるようにと心を整えて一日を始められるように祈っていきたい。

2016年8月28日 (日)

主の前に生きる

 (ルカ14:7-14,ヘブライ13:1-8,エレミヤ9:22-23)
 1世紀のギリシャの伝記作家ブルタークは「小さな、実に些細な行為の中に、人の性質は非常に正確に反映される」と述べているが、イエスも人々の様子を良くご覧になっておられた。だから人々の苦しみや悲しみに気付き手を差し伸べられる。今日の日課は食卓での話だが、1節によるとイエスはファリサイ人の家で食卓の席についておられるので、客と主人の両者がどんなふるまいをしているか観察していたのであろう。その食卓の振る舞いから、「神の国」に通じるものを見出され、譬えを話しておられるのであろう。
 7~11節は社交や礼儀作法についての解釈のように思える。謙遜についての教えでありつつ、人間のエゴについても教えている。末席に着くことが主席へ上がることへの道となると聞くと、自分の地位を高めるために(一見謙遜のように見える)末席に着こうとするかもしれない。イエスはここで神の国について語られる。神の国においては「神と私」ということだけが問われるのであり、現実社会が相対的に評価して低いとしていても、神の前においては「高い・低い」という概念ではなく、「一人ひとりは大切な存在」ということが強く語られているのである。
 日課の後半は招く側、即ち主人についてである。ここでの主人役は、他の人々の上に立つ力を得、彼らに貸しを作る存在として描かれている。報いを期待する主人は報いることができない人々にはサービスや食事を提供しないだろうし、その結果、客たちは好意をお返しできるような人々で構成されることになる。しかし神の国では、財産もなく社会に食卓をもたない人々を食卓に招く。神は我々皆のホストなのである。私たちは実際、客として振る舞っており、神はホストとして文句も言わず、客の身分を限定せず報いも期待されない。そのように招くことが現代の教会にも求められているのであって、貧しい人や障碍者の必要に応えよと言っているのではないことは忘れてはならない。具体的に言えば、お返しとして私たちを招待することが出来ない人を歓迎することだと言われているのである。
20160828  あるいはまた誰かに食べ物を送ることを言っているのでもなく、むしろホストとゲストが共に食卓につくことが重要であると語られているのである。それは「パン裂き」、即ち「聖餐」に似ている。他者を受け入れ、自分と同等とみなし、結びつきを堅くし、共に生きることこそが神の前に生きている徴なのである。受け入れ、分かち合える群れとなることが出来るように祈っていこう。

2016年8月14日 (日)

和解のために

 (ルカ12:49-53,ヘブライ12:1-13,エレミヤ23:23-29)
 「火を投ずるために来た」とイエスは言われた。イエスご自身はヨハネから水で洗礼を受けられたが、更に十字架上で流される血による洗礼を受けなければならなかった。その血による洗礼が成し遂げられると、聖霊の火による洗礼がこの世で全面的に開始されるということでもある。しかし、火とは危険なものであり、イエスが来たことは危険なことが起こるということになるのではないだろうか。
 聖書の言葉は慰めに満ちており、励ますために、慰めるために、立ち上がってほしいために、私たちは聖書の言葉を友人に贈る。しかし聖書の全ての言葉が私たちにとって慰めとなる訳ではない。だから私たちは心地よく響く言葉だけを選択しているとも言える。つまり「聖書の言葉に甘く向き合っている」という現実があるのではないか。
 ある人は、そのように甘い言葉だけを拾い、自分自身に、あるいは自分の罪に向き合わない姿を叱咤するために覚醒剤を使うようなものだという。興奮していつも自分だけは目覚めていると思い込む、自分で自分を酔わすだけでしかないからである。つまり、自分で自分を安心させるような信仰に陥っていないかどうかが問われているのであり、神の言葉でこそ安心を得ることが大事なのである。そのことについて「平和」を通して教えておられる。そのために大切なことが「神の家族」ということである。それによって地上の家族に分裂をもたらされるが、父なる神との関係を確立することで地上の親子関係が深まることを教えておられる。
20160814  家族を分裂させるような危険な存在としてのイエスの姿と最初に述べたが、ひとつの目的や価値へと向かうということは他のものへは背を向けるということになるからでもあって、命についての真理を知ることと真理に従う決断こそが、先ず求められているのである。しかし、ヘブライ2:2にあるように、キリストは私たちの歩みにいつも伴走してくださる。パラリンピックのマラソンでは、目の見えない人がいつも伴走するように、その道のりが決して平坦でなくともどのような時にも強く結びついてイエスは伴走し、ゴールへと導いてくださるのである。この道こそ真の家族、平和への道であることを私たちが信じるなら、そのゴールにたどり着くことができると約束してくださっている。主イエスの言葉によって立ち、神と和解をなしてこそ家族との間に真の平和を得るのである。

2016年8月 7日 (日)

労苦の先

 (ルカ12:13-21,コロサイ3:5-17,コヘレト2:18-26)
 相続に関する相談から日課が始まっている。民数記27:1~11や申命記21:15~17に財産に関する律法があるが、分配がスムーズにいかないことが多かったようである。日課の中でイエスに相談した人は弟であった。律法には相続はすべての子どもに権利があるものの、その分配比率については明確なものはないために不満をもってイエスの下にやって来たのである。
 創世記の家族にも同じ問題が起こったことが記されている。イサクの双子の息子たちは長子権を巡って争った。ヤコブの子どもたちも、ヨセフに与えられた特別な祝福のために兄たちの妬みを買った。(ただし、祝福を巡る争いがあっても、神が救いのためにその争いをも用いられたことを教えてはいるが。)人間の側の欲望、醜い言い争いはいつの時代にも存在し、数限りなくあることを私たちも知っている。
 イエスにその判定を求められたが、イエスは拒否された。誰それの欲が正しいなどと、結局のところ判定できる者はいないからであるし、判定したところで、それは救いにはつながらないからでもある。また物欲や貪欲は将来の安定のためであり、それは心配や恐れへと移行することになり、神の守りを忘れさせ、神そのものをないがしろにするからでもある。
 具体的に金持ちのたとえで、その愚かさが語られる。外典のトマス福音書の語録63に同じ話があり、最後に「聞く耳のある者は聞きなさい」とあるが、福音書の中に度々出てくるフレーズである。「聞き続けなさい」という意味であり、得心がいくまで、何度も何度も繰り返し熱心に、イエスに向かって「尋ね続ける、問い続ける」ことが求められている。つまり聞き続けなければ、そのことを忘れてしまうということであり、それほどに、物欲、貪欲は我々を惑わすということにほかならない。
20160807  貪欲が愚かであることを教えるために、愚かな農場主のたとえが語られる。彼は不正な利益や盗みをしたわけでもない。労働者を不正に扱ってもいない。誠実で慎重な人物と思われるが、何が彼の問題であろうか。彼は完全に自分のために生き、自分に語り、自分のために植え、自分自身に祝福を述べており、他者の必要には目を向けないからである。労苦の先に自らの栄光や命を得ようとしたからである。私たちの労苦の先にあるのは、世の栄光ではなく、神があたえてくださる平安と喜びこそ求めていきたい。

2016年7月31日 (日)

願い、受け付け中

 (ルカ11:1-13,コロサイ2:6-15,創世記18:16-33)
 ルカには重要な要素として祈りがある。洗礼に於いて(3:21)、12人を選ぶ前に(6:12)、受難の初めての予言の前に(9:18)、変容に際して(9:28)など。祈りは訓練であり、単なる感情の発露としてではなく、教えられ経験し続けることなのである。
 日課は主の祈りである。讃美を内容とする二つの願いと祈る者たちへの配慮を求めた三つの願いがあり、共同体の祈りともいえる。
 第一の願いは神の国あるいは神の支配の到来の願いである。十戒の第一戒に通じるものであり、神を神とし、だから神が支配することを求めるのである。その上で自分自身を何にもまして神に委ねられるようにと願うのであるが、無責任になれというのでは決してない。第二の願いは御国の到来の願いであり、終末論的祈りともいえる。
 配慮を求めた願いの第一は、神の国の到来の際に天から送られる糧を求めつつ、同時に日々の糧の供給を願うものである。弟子たちを宣教に派遣される際(ルカ10:4~7)、余分なものは持たずに宣教の旅に送り出し、他人のもてなしに頼ることを命じられたが、それこそが神が養ってくださるということを弟子たちが体現することだからであった。
 第二は、自分に負い目(借金と訳すこともできる)のある人をみな赦すから、自分の罪を赦すようにと神に祈ることである。理由は、所有するという概念が人を裁いたり、自分で生きようとしてしまうということにつながるからである。
 祈りの最後の試みとは、終末の前の邪悪なものによって与えられる最後の打撃や苦しみを意味しているだろう。これは最初の願い、神の国あるいは神の支配の到来と?がっており、委ね切る心にはいつも試みが邪魔をすることを教えているのである。
20160731  祈りを教え、真夜中の友人のたとえと続く。真夜中でも友人のところに頼みに行って良いというのではない。圧力に屈して要求に応じる友人に神を比べているのでもない。我々に神の国を与えようと願う神は、どんなにより大きく応えてくださるかということにほかならない。
 「求めなさい、願いなさい」と神は言ってくださるのだから、心からの願いを神に届けたいと思う。その時に神は、聖霊を通して道を与えてるださるのだ。神様は今日も明日も明後日も、「願い、受け付け中」である。神を受け入れ安心して日々の歩みを続けよう。

2016年7月24日 (日)

主をお迎えする

 (ルカ10:38-42,コロサイ1:21-29,申命記18:1-14)
 日課はマルタの家にイエスを迎え入れた話である。その家は「主人がマルタ」、つまり女性の家に入るということであるが、女性の家にイエス(男性またはラビ)を招きいれるということは、当時にあってはとても革新的な出来事である。別の個所では、イエスが女性に教えておられるが、そのことも同様である。当時のラビたちは、女性が「ひざまずく」こと、つまり弟子になることを許しはしなかったからである。
 フェミニスト神学といわれる分野があるが、かいつまんで言えば女性解放の神学といえる。聖書において女性が不当に差別されていることを明らかとし、「父なる神」という表現は、男性の視点からのものでしかないと主張する。その結果、神を男性とすることを批判し、「女性が聖職者になれない」ということにも批判を向ける。しかし最近の研究では、聖書は女性に対して否定的なものばかりではないと修正する見解も現れている。その一つが今日の日課である。女性の家に入り、女性に教えておられるからである。
 この二人が住む家だが、物語はイエスとマルタを中心に展開していく。この出来事は極端に戯画化されてはならないだろう。例えば、マルタは洗い桶の洗剤の泡に目を釘付けにしており、マリアは沈痛な面持ちで部屋の椅子に腰かけており、イエスは流しに皿を山と積み上げることに霊的な警告を与えているというように。そうして彼女たちの行為を厳しく非難することで、マルタはもてなしをまったく止めてしまうかもしれないし、マリアは存分に聞き入るようにと命じることで彼女はその場に座ったきりになってしまうかもしれないからである。マリアは描写されているものの言葉を語らず行動も起こしていないし、マルタの行為は歓待を実践したもので、祝福を受けるに十分な行為であるというだけである。だからこそマリアに向けられた彼女の不平はもっともなものと思われる。
20160724  それに対してのイエスが伝えたいことは「必要な一つのことは食べ物ではなく神の言葉なのだ」と二人へのイエスの態度から、はっきり理解できる。もてなしに忙しくて言葉を聞かない女性に、イエスは「座って、聞き、学ぶように」と言われているのである。私たちが「今」何をすべきかは、日々の祈りにおいて主をお迎えする時に教えてくださる。その声が聞こえたら、「そうだ、Yes」と応えて従っていこう。

2016年5月22日 (日)

心を開いてごらん

 (ヨハネ16:12-15,ローマ8:1-13,イザヤ6:1-9)
 本日は三位一体主日であるが、聖霊降臨後に三位一体主日として守られるようになったのは、教皇ヨハネス22世の時、1334年からといわれている。主日の中では最も遅い制定である。ルーテル教会でも以前は「三位一体後第○○主日と云う呼び方をしていたが、教会暦の歴史(カトリック)が聖霊降臨祭、三位一体主日、聖霊降臨後と称されてきたことから、茶色の式文に変わった時に、恐らく元に戻したのだろう。
 ところで、三位一体をどのように説明したらよいのだろうか。キリスト教においては大切な教理であり、もしそれに否を唱えるなら異端とされてきた。(初代教会は三位一体の信仰とそれを否定する人々との戦いであったともいえる。決着がついたのは325年のニカイア公会議である。)
 「太陽が父なる神、子なる神が光、聖霊なる神が温度」と説明する人もいる。それぞれに役割を果たしている神ということは理解しやすいが、そこで留まると一神教ではなく三神教になってしまうことに気付かなければならない。
 日課には聖霊について、真理をことごとく悟らせるが、聖霊の神として単独で働き語るのではないということである。聖霊は神から聞いたことを語り、これから起こることをあなた方に告げるのであるから、神と一つであり、神そのものなのだということである。子なる神イエスは、「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである」と語られており、神と子とが一つということを告げている。
20160522  父も子も聖霊も一つなのだということはどういうことか。私たちは祈る時に「父なる神様」と呼ぶ。「子なる神よ」とも「聖霊なる神よ」とも呼び掛けない。その言葉通りに理解すると「父」と「子」と「聖霊」という三神になってしまう。しかし、私たちが祈るのは、三位一体の「父なる神」であって、感謝するのも三位一体の神であり、最後の祈りも、三位一体の主イエスキリストを通して、三位一体の父なる神にお願いしますということにほかならない。神も、主イエスも、聖霊も、決して独り歩きしているのではないし、三つの神の誰かにお願いしているのではないが、その在り方は私たちの理解できない存在であり、私たちの想像を超えた在り方で三位一体の神が働いておられのだから、心を開いて神に感謝し信頼して従っていくことこそ大切なのである。

2016年5月15日 (日)

守護者を知る

 (ヨハネ16:4b-11,使徒2:1-21,創世記11:1-9)
 ペンテコステ、五旬節祭ともいう。もともとはユダヤ教の七週の祭りであり、春の小麦の収穫祭であり、この日に弟子たちに聖霊が下ったことを覚える。
 ヨハネ福音書には聖霊の記述が多い。迫害が激しくなる中、再臨のイエスの到来が遅れており、不安や恐れの中で聖霊の約束を思い起こし、強調することで共同体の不安を取り除こうとしたからとも考えられる。
 しかし、そのような不安があったことを窺い知ることができるのが、今日の日課でもある。今日の日課の前には、会堂から追放され殺されると預言されている。しかも迫害している者自身が「神に奉仕しているのだ」と主張する時代が来ると預言されている。まさにヨハネ共同体が置かれている状況が描かれていると受け取ることができる。七節には「去っていくのはあなた方のためになる。去っていかなければ弁護者はこない。」とあるが、イエスが去っている共同体だけれども、それは弁護者が来ている徴なのだと不安を取り除いたのである。
 さて、降ってくる聖霊は、「罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかにする」という。では罪とは何か。迫害する者がいる、殺そうとするものがいる、彼らは神の奉仕者と自認しているが、それこそ神を信じないことであり、罪そのものだというのである。ヨハネの共同体は当時の社会において否定されていたけれども、否定する者こそ罪の状態にあるということにほかならない。義とは何か。ヨハネの共同体はイエスが見えない時代に生きている。しかし、不安になるその状況こそ「義」であり、肯定されることであり、受け入れるべきことなのだと教えておられる。裁きとは何か。迫害は人に「裁かれている」と思わせるが、真の裁きは神がなさることであり、この世の裁きにも心を折られずに神に委ねることが強調されている。
 これらのことを現代に置き換えると、罪は私たちのあるがままを知らせ、そのような私たちをも神は見捨てないことを教える。つまり、希望を与えるのである。義を知ることでどのような状況にあっても、神が働いてくださることを知り、平安が与えられる。裁きを知ることは、委ねることができる方を知ることであり、自由とされるということにほかならない。
20160515_2  ヨハネの共同体は聖霊、弁護者を知ることで、迫害の中にあっても「生きる力」を与えられた。私たちも同じであり、私たちが生きるために、希望を平安を自由を知り生きるようにと言われているのである。そこにおいて私たちは生きる力を得るのである。

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