カテゴリー「真間川のほとりで」の記事

2017年7月30日 (日)

口内調味

 青い鳥ホームの学童キャンプに同行してきた。二日目の夜のこと、夕食はカレーライス。子どもたちは3班に分かれて飯盒で米を炊いた。水加減、火加減で炊き上がりに違いが出るので、「どの班のご飯が一番美味しいかコンクール」が行われた。審査員は牧師先生!「苦労して炊いたご飯に優劣をつけろとは」と困惑する私を尻目に、子どもたちは大騒ぎ。やれやれと思いつつも、それぞれの班からカレーライスを受け取り口に入れていく。ご飯の固さに微妙な違いがあるのが分かるが、だからと言って順位を付けるほどの差がある訳ではない。しかし固唾を飲んで発表を待つ子どもたちに何かを言わなければならない・・・う~~ん!!微妙な固さの違いを我が口の中で感じた結果、「固さで言えば2班が一番、でもカレールーを掛けるには少し固い方が良いので1班、だけど年を取った先生には柔らかいのが良いから3班」ということで、「美味しいご飯賞・カレーライス賞・優しい賞」をそれぞれ受賞してコンクールは笑顔の内に終了。やれやれ!!!
 濃い味のおかずをご飯で薄めながら食べるのは、日本人のみが行う食文化なのだという。卵とご飯、焼き魚とご飯、漬物とご飯など、自分の好きなように口の中で調合しながら食べる特有の食べ方で「口内調味」と言うが、このような食べ方、味わい方は欧米人には理解できないという。確かに、一品一品出されるのが西洋料理であって、食べ合わせする料理とは考えにくい。しかし、フルコースを食しつつも、ついご飯替わりのパンと一緒に食べてしまう私の食べ方は、西洋料理のルールから言えばマナー違反なのかもしれないが、口内調味をする日本人だから当たり前と許してもらうしかない。普段は考えもしないけれど、一汁一菜でも豊かな食事と感じさせてくれる口内調味という食べ方を与えられていることは、感謝すべきことではなかろうか。
 「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。」(詩編34:9)恵みを味わえと主は言われる。様々な出来事から恵みを見出し味わうことに関して、口内調理をする私たちは特別に秀でてるかもしれない。いや、そうに違いないと信じて歩めば、きっと沢山の恵みを見出せることだろう。

2017年7月23日 (日)

あるがままを受け入れる

 2年に一度行われる陸上競技の世界大会が、今年の8月4日からロンドンで行われる。それに先立ちもう一つの大会「パラ陸上」は既に開始され、選手たちの活躍する姿がニュースでも取り上げられる。パラ陸上は、障害の種類と度合いによって24のクラスに分けられ行われる。義手、義足、車椅子等の道具の助けを得て、また全盲の人は介助者の声の助けを得て、競技する選手たちの姿は美しいと思う。あるがままの姿で競技し、自らを輝かしているように見えるからだ。
 アメリカの神学者ラインホルト・ニーバーが、51才の時の説教での祈りがある。「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの『冷静さ』を与えたまえ。そして変えることのできるものと、変えることのできないものとを識別する『知恵』を与えたまえ。」この祈りは、教会だけでなく、様々な更生のためのプログラムにも組まれていると聞くが、この祈りの言葉を実践しているのが、まさにパラ陸上の選手たちではないかと思う。彼らは、変えられない現実を冷静に見極め受け入れ、自分の心の在り様を変えることで、新しい希望を与えられたのではないだろうか。
 先日亡くなった聖路加国際病院の名誉院長日野原重明先生も、この祈りの言葉から次のようなコラムを書いておられた。「度重なる災害に日本はみまわれています。亡くなった人、失ったものを取り戻すことはできません。けれど自分の心の持ちようは変えられます。どうか傷ついている方々に『希望』という名の支えを差し伸べて下さい。自分の命の時間を他者のために使うことで、自分もまた心の幸福感が得られます。そう信じること自体が、耐える力と実行に移す勇気を与えてくれます。」(朝日新聞2012.11.26.コラムより)
 あるがままを受け入れることが次へのステップとなり、希望を生み出していく。今は道が見えなくとも、諦めずに耐えて待つ時に、道は開けてくるに違いない。神も「求めなさい。そうすれば与えられる。」(マタイ7:7)と約束してくださっているからである。そのことを体験したプレ陸上の選手たちは、自らの姿を通して私たちに元気をくれているのではなかろうか。

2017年7月16日 (日)

睡眠負債

 梅雨明け宣言は出されていないものの、雨も降らずに猛暑続きの毎日。梅雨は終わったのではないかと思うのだが……。ともあれ夜になっても暑さのために寝苦しく、睡眠不足が増すばかり。ということで、予定のない日は睡眠不足を解消するための昼寝が日課になっているが、まるで保育園児のようだと思いつつも欠かせない。その結果、また夜が寝苦しくなり、睡眠不足は解消されないという悪循環を繰り返している。「予定のない日に寝溜めしておきたい」と思うのだが、我が家には「ワンコの散歩」という欠かせない定期的行動があるのでそれもままならないが、その一方、年を取れば睡眠時間は少なくていいのだと自らの心を誤魔化す日々。
 不足しているなら、その分をどこかで補えば良いとこれまでは思っていたのだが、「睡眠不足」は積み重なって、日々の生活の質を低下させたり、更には命にかかわる病気のリスクを高めることになるのだという。専門家たちは、蓄積する睡眠不足のことを「睡眠負債」と名付け、対策の必要性を訴えている。
 アメリカの研究チームの実験がある。被験者を徹夜のグループと睡眠6時間のグループに分け、注意力や集中力がどう変化するのかを調べた。徹夜のグループは初日、二日目と成績が急激に下降し脳の働きが衰える。6時間のグループは最初の二日間は殆ど変化がないが、徐々に脳の働きが低下し、二週間後には二晩徹夜したのと同じ状態になったという。しかし6時間のグループの人は脳の衰えを必ずしも自覚していなかったという。睡眠不足が蓄積していても気付かないが、仕事や家事に影響を及ぼしているということになる。がんや認知症のリスクも高める可能性もあるというから、負債を返済することが必要となる。寝だめでの一括返済は無理だが、「今より少し長めに睡眠し、週末も同じ時間帯で寝起きすることを続けること」で返済できるのだという。(NHK.「睡眠負債が危ない」より) 「不足」だと思っていたから余り気にせずにいたが、「負債」と聞いたら何とか返済しなければという気になってくる。先ず寝る時間を1時間早めるかなぁ!!
 主の祈りの中、第五の祈りで「我らの罪を赦したまえ」と祈るが、「罪」とは「負債」のことである。キリストは十字架によって贖い私たちの負債を返済してくださった。負債のない者として、神に仕える人生を歩み続けていきたいものだ。

2017年7月 9日 (日)

AI(人工知能)その2

 事故で腕を失ったり、生まれつき腕が欠損している人のために義手がある。それについての私のイメージは、「腕があるように見せる」という程度のものだった。しかし筋肉が動く際に発生する微弱な電気を読み取って、手指を動かす「筋電義手」というものも開発されており、2000年頃から日本でも一般に使用され始めたらしいが、高額なため1%程度しか普及していないという。だから私たちが目にしないのも無理もない。
 人間の体は筋肉を動かそうとすると脳から指令が出、それが神経を伝わり筋肉に達し放電現象を起こす。その電気は「手を握る、開く、手首を曲げる」といった動作それぞれで周波数や振幅が違うので、内蔵されたマイコンで特性を解析し、モーターを駆動させて動かすのが筋電義手なのだという。その筋電義手に装着させる人の手を動かすパターンを、予め学習能力をもつAIに記憶させた上で本人に装着する。するとAIはその人の個性をいくつかの動作を通して学習し、その人に合わせた動作をするようになるのだという。勿論まだまだ問題も多く、個々の指の動き、持つ力、筋電義手そのものの耐久性や充電のことなど課題はたくさんあるが、これを付けた人が自信をもって生きていけるなら、素晴らしいことではなかろうか。(HP:Mugendai参照)こうして与えられた新しい技術を、人はどのように用いるかということが、これからも益々問われていくことだろう。
 宗教改革の時代、それまでの礼拝様式や装飾などの全てを捨てた教会があった。しかしルターは「信仰のために有益なもの」に関しては大事なものとして残した。その結果、聖壇には教会暦を教える聖壇布が用いられ、聖書の光を伝える燭火があり、牧師も祭司服を着用する。これらはまさに信仰を助けるものであって、生き生きとした信仰に繋がるものである。その事から言えば、私たちが最も気を配らなければならないことは、人が人として喜んで生きることが出来るために必要なことは何かを考えることであって、知識の積み重ねによって得られた新しい技術AIだけが素晴らしいものだと賞賛することではないだろう。
 筋電義手がもっと手に入れやすくなり、腕を失くした方々の人生に希望が与えられたらと思う。そんなところにこそ、私たちが払う税金が用いられたらなぁ…。

2017年7月 2日 (日)

AI(人工知能)

 めったに取り上げられなかった将棋の世界が、今、中3プロ棋士藤井四段の活躍によって注目されている。次々に先輩棋士たちに勝利し、重ねた連勝数は「29(7月1日現在)」。これまでの連勝記録を抜き去ってしまい、今後の活躍に周囲の期待も高まるばかりである。彼の強さの秘密のひとつに「AI(artificial intelligence:人工知能)」の活用があると聞く。人間が知能を使って行うことを機械にさせようとするもので、新しい情報から将来使えそうな情報を得る「学習」と知識をもとに新しい結論を得ようとする「推論」をさせることなのだという。将棋にも過去の膨大な記譜が残されており、そのデータをもとにAI自身が学習し最も最善の手を探っていく。藤井四段のAIが予測するデータに最も多く合致し、最善の手を選択できていることが勝利を生み出しているという。勿論、日本中の人々に注目されつつも持てる力を発揮できているのは、将棋に集中できる素晴らしい精神力があるからに他ならないが…。
 私たちの日常の情報は気づかない内に「個人情報」として集められている。スマホやパソコンで検索する、車や電車で移動する、ネットや商店で買い物をする等、どれも日常のさり気ない動作だが、それが情報として集められAIによって活用されている。例えばコンビニで買い物をする。レシートには購入日時と商品名が打ち込まれている。AIはその情報をもとに、時間帯によって売れる商品を見つけたり、商品の組み合わせを見ながら、「Aを買うとBを買う人が多いので、AとBを並べて置こう」というように配置を換えて購買意欲を高めることもできる。要するに、AI自らが「学習」して将来のことを「推論」し、より良い方法を提供してくれるようになるということだが、AIを先ず作ったのが人間なら、用いるのもまた人間なのだということを忘れないで欲しいと願う。
 私たちに与えられた信仰にも「学習」が必要である。礼拝に集い、み言を聞き、賛美する。日常の中で経験するあらゆる出来事の中から恵みを見出す。そのことを積み重ねることによって、明日への希望を「推論」することが出来るようになる。人それぞれに相応しい「信仰という知能」を神様は与えてくださっているのだから、眠らせておかずに、大切に育てていければ素敵な明日を生きることができるのではないか。
 さて、本日(7月2日)行われている藤井四段の結果は如何ばかりであろうか。

2017年6月25日 (日)

雨の日に

 梅雨入りしたものの、雨が少ない今年。このままだと植物の生育や生活用水への影響も心配な事態になるのではないかと危惧されるので、少雨の傾向と予報されている今日、私たち一人ひとりが節水を心掛けねばと思う。そんな風に雨の必要性を理解しつつも、気持ち的には雨の日よりも晴れの日を歓迎してしまう。どんよりとした空が外出する心にブレーキを掛けるし、傘を差すのも手間だし、濡れないように気を付けながら傘を差して歩くのも鬱陶しいと思うからだ。ならば、「雨の日が待ち遠しい」と気持ちを入れ替えられたら鬱陶しさも消えてしまうのだろうけど。
 「濡れんざ」とは福井地方の方言で、「濡れないですよ」という意味なのだという。この言葉をそのまま商品にした傘「ヌレンザ」が、福井県の傘メーカーから販売されている。このメーカーが大切にしたことは「お客様の都合が第一の文化」であり、その結果「①いつも乾いた状態で持ち歩ける、②持ちやすい持ち手」を追求し、「ヌレンザ」という商品を開発した。雨に当たりながらでも水滴を弾いてくれる撥水力とひとふりでほぼ乾いた状態を維持できるようにすることで濡れた傘を電車や店舗内に持ち込まずに済み、高齢者や握力の弱い人でも持ちやすく落としにくい設計になっている。その上、一本一本に「傘のカルテ」があり、万が一修理を必要とした時にも対応できるようにしているのだという。傘一本とはいえ、使い手への暖かい配慮のこもった「ヌレンザ傘」、雨を避けるという機能以上の思いを、その傘は使用する人に与えてくれるのだろうと思う。
 イエスが来られると聞いて、木に登ってその姿を見ていたザアカイ。彼が木に登っていたのは、背が低く群衆に遮られていたからであり、誰も彼を前に入れてくれなかったからであった。さてイエスがその場所に来られた時、上を見上げて「ザアカイ、急いで降りてきなさい。あなたの家に泊まりたい。」と声を掛けられた。ザアカイはどんなに嬉しかっただろう。「財産の半分を貧しい人々に施します」という告白からも分かる。イエスの心配りが、一人の罪人を素晴らしい人生へと招き入れたのである。(ルカ19:1以下)
 「傘は使い捨て」とビニール傘を気楽に使っている私だけど、「ヌレンザ傘」のような心籠った傘を持ったなら、雨の日も待ち遠しくなるのではなかろうか。

2017年6月18日 (日)

これも神様の置土産?

 神はどのような方であるかについて代表的な言い方に、次のような言葉がある。「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。」(出エジ34:6-7)この中の「忍耐強く」という言葉は、口語訳では「怒ること遅く」と訳されていた。個人的には口語訳の言葉の方が的を射ていると思う。何故なら、この言葉の後には「しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」と続いており、「神の怒り」に中心があると思われるからだ。同様に人間もまた「怒る」存在であり、「怒り」をコントロールできるかどうかは大切なことである。
 「脳の中には異なる時間や場所での記憶を互いに結びつける細胞の働きがある。『怒り』という感情を伴った記憶は同じ脳細胞の中にしまわれているため、何かの弾みでこの細胞が働き連鎖的に怒りを思い出してしまう」という。これは富山大学の井ノ口馨教授が発表した内容だが、「記憶を互いに結びつける細胞」が存在するから、怒りも増幅してしまうということになる。このことからすれば、「結びつける細胞」は、「不安・喜び・悲しみ」といった感情を様々な記憶の中から引出し結び付けることにより、豊かな感性の人にさせてれくれるものであり、目に見えず気づきもしなかったけれど、神様がより豊かな人間になるために与えてくださった「置き土産」だったのではないか。
 聖書にも「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(1テサロ5:16~18)と語られているが、この場合の「いつも・絶えず・どんなこと」を可能にするのが「結びつける細胞」ということになろうか。そしてこの細胞が働くように神様が送ってくださったものがある。即ち「助け主=聖霊」である。結びつける細胞、そして聖霊も神様がくださったもの、まさに「神様の置き土産」なのだから、意識して私たちが受け入れるなら、豊かな日々になるのでは!
 怒りをなだめるポイントは「徹底的によりそって話を聞く」「怒りの矛先をそらす」「『優しい』などとほめる」などだという。更に研究で「血糖値が下がると人は怒りやすくなるのだ」ということも分かってきている。飴玉差し出し、「どうしたの」と聞いてあげたら、あの人の怒りも少しは治まるかもしれない。

2017年6月11日 (日)

神様の置土産

 私が虫垂炎を患ったのは神学大学1年の時、9月に行われる「一日神学校」の前日だった。急にミゾオチが痛み出し、近所の病院に駆け込んだら「虫垂炎」と診断され、即入院手術となり、翌々日には退院し寮に戻ってきた。「大事な時に、あろうことか虫垂炎とは」と思う一方、「あってもなくても良いような臓器、この機に取れたのだから良しとしよう」と思ったものだった。
 私は素人だからつい「盲腸(虫垂)はあってもなくても良い臓器」と表現してしまったが、「盲腸の機能は良く分かっていない」ということが正確な表現だろう。人間は身体の全てを解明している訳ではないし、仕組みや働きには未だ未だ未知な部分が多くある。医学は確かに進歩しているが、「進歩は未知なことの発見」に繋がっているのではないだろうかと思う。そのようなことのひとつに、「内臓動脈」という血管がある。
 5年ほど前、天皇の冠動脈バイパス手術が行われた際に用いられたのが内蔵動脈であった。胸骨の裏側に縦に走っている血管がそれで、はがしてもその後の人体への影響はないと言われている動脈なのだという。だから冠動脈が詰まった時に替わりの血管として使えることが分かり、天皇の手術の際もこの動脈が使われてバイパス手術が行われたである。医学者の間ではこの内蔵動脈を「神様の置土産」と称されているのだという。「神様が、もし人類がはからずも長生きできるようになり、冠動脈が詰まる事態になった時、気がつくかどうかのクイズを出した、と勘ぐりたくなるようなもの」と、ある医者は記していた。未知なる機能が私たちの身体には沢山あること、だからこそ謙「神様の置き土産」と謙虚に受け止めることが、次への進歩に繋がっていくのではないかと思う。
 「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」(ヨハネ14:16~17)この言葉は弟子たちに与えてくださった約束であるが、「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることはできない。」とも言われておられる。せっかくの主の「置き土産」である聖霊を感謝して受け取る時に、苦悩の中にあっても先へと歩を進める力がいただけることを、聖書は私たちに告げてくれている。

2017年6月 4日 (日)

みちびき

 カーナビのついた車に乗るようになって、車の中から地図帳が消えた。当然と言えば当然なのだが、だからといってカーナビが絶対正しいと思っている訳ではない。新しい道路や建物は自動的には表記されないし(データー更新が自前で必要)、時折、現在地とは全く異なった所を走っているように表示されることもあるからだ。私のナビが頻繁に行う間違いは、教会から保育園に行く際に、江戸川を走行中のような画面が出ること。慣れているのでさほど気にせず(ナビ画面の上だけだが)江戸川を快適に走行させるものの、知らない土地で誤差があっても気付かずに走行させることになる。そんな誤差が生じるのも、カーナビに情報をもたらす衛星が、四六時中日本上空を飛行している訳ではないからだ
 その誤差を埋めるため、6月1日、「みちびき2号機」という衛星を載せた「H2Aロケット」が打ち上げられ成功した。今年中にあと2機打ち上げられ、誤差を数センチに縮めることを目標にしているのだという。カーナビのデーターは、米軍が軍事目的のために飛行させていた31機の衛星からの情報である。世界中で使用可能となったことから、現在のGPS(全地球測位システム)として活用されるようになったが、へき地やビルの谷間などでは正確な情報を得ることはできなかった。今回の衛星は日本とオーストリア上空を「八の字」に旋回させられ、残りの2機を打ち上げれば、ほぼ日本上空に24時間滞在させられる(一機の日本上空滞在時間は8時間)ようになることから、誤差数センチで情報を提供できるのだという。位置を正確に得られれば、様々な分野での自動化が可能となるだろうし、私の車のカーナビも江戸川を走行しているように表示することもなくなるだろう。その意味で、新しい衛星は、正確な「みちびき」手になると期待される。
 人生のという道程にも「みちびき」があることを私たちは知っている。「神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。」(使徒5:31)この方とはイエス・キリストであり、この方は神の右に挙げられた後、イスラエルのみならず全ての人のために、導き手である聖霊を送ってくださったのである。聖霊の助け、導きをいただいて、私たちは人生という道を安心して辿っていきたい。

2017年5月28日 (日)

聖別する

 先週の日曜日の午後、隣りの小岩教会の献堂式が行われ出席した。小岩教会は保育園を併設しており、一昨年夏から保育園を運営しつつ全面改築工事を開始した。牧師館部分を解体して保育園を新築、その後、礼拝堂と旧園舎を解体。先にできた保育園にくっつけるように礼拝堂(保育園の講堂兼用)と牧師館の工事が行われたと聞いている。私自身が教会の修復工事や法人施設の改築工事の経験があるだけに、工事に関する様々なご苦労に思いを馳せる。解体に伴う振動や騒音、近隣住民への配慮、工事中の園児の安全、教会活動の維持等々、牧師を始め会員の方々の労は多大なものであっただろう。それらの難題を乗り越えて、献堂の日を迎えられたことに心からお祝いを申し上げたい。
 ミニ・コンサートが行われた後、献堂式が行われた。新しい礼拝堂が建てられると行われる式であるが、礼拝堂の入口で祈りがなされ、十字架を先頭に入堂することもある。20数年前、北海道に居た頃、函館教会が建て替えられ新しくなった際、十字架を掲げて入堂する式が行われた。私は遠方だったために出席しなかったが、函館教会の代議員から「偶像崇拝ではないか」と常議員だった私に質問があった。十字架を掲げるという、日頃は目にする光景でなかったことが、そのような質問になったのではないか。「十字架は象徴であると同時に、これから礼拝堂で行われていくことの意味、即ちキリストの贖いと、そのことによってもたらされた罪の赦しの宣言を人々に知らせるために行われた」と説明して納得してもらった。小岩教会の献堂式では、入堂は行われなかったものの、礼拝堂と新しくなった聖卓・説教壇の聖別が、立山総会議長によって執り行われたが、「神に属し、神のために用いられる」ことを表すための大切な式であった。このことはキリスト者一人ひとりにも言えることであり、「神のために、隣人のために私を用いてください」と祈り、聖別された私が「誰かのために私の時間を用いる」日々に招かれていくことに繋がっているのである。
 多くの方々の出席を得て行われた献堂式。新しい出発の瞬間に立ち会えることは嬉しいことである。式を終え私自身も聖別された思いを与えられ、帰途に就いた。

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