カテゴリー「真間川のほとりで」の記事

2017年6月25日 (日)

雨の日に

 梅雨入りしたものの、雨が少ない今年。このままだと植物の生育や生活用水への影響も心配な事態になるのではないかと危惧されるので、少雨の傾向と予報されている今日、私たち一人ひとりが節水を心掛けねばと思う。そんな風に雨の必要性を理解しつつも、気持ち的には雨の日よりも晴れの日を歓迎してしまう。どんよりとした空が外出する心にブレーキを掛けるし、傘を差すのも手間だし、濡れないように気を付けながら傘を差して歩くのも鬱陶しいと思うからだ。ならば、「雨の日が待ち遠しい」と気持ちを入れ替えられたら鬱陶しさも消えてしまうのだろうけど。
 「濡れんざ」とは福井地方の方言で、「濡れないですよ」という意味なのだという。この言葉をそのまま商品にした傘「ヌレンザ」が、福井県の傘メーカーから販売されている。このメーカーが大切にしたことは「お客様の都合が第一の文化」であり、その結果「①いつも乾いた状態で持ち歩ける、②持ちやすい持ち手」を追求し、「ヌレンザ」という商品を開発した。雨に当たりながらでも水滴を弾いてくれる撥水力とひとふりでほぼ乾いた状態を維持できるようにすることで濡れた傘を電車や店舗内に持ち込まずに済み、高齢者や握力の弱い人でも持ちやすく落としにくい設計になっている。その上、一本一本に「傘のカルテ」があり、万が一修理を必要とした時にも対応できるようにしているのだという。傘一本とはいえ、使い手への暖かい配慮のこもった「ヌレンザ傘」、雨を避けるという機能以上の思いを、その傘は使用する人に与えてくれるのだろうと思う。
 イエスが来られると聞いて、木に登ってその姿を見ていたザアカイ。彼が木に登っていたのは、背が低く群衆に遮られていたからであり、誰も彼を前に入れてくれなかったからであった。さてイエスがその場所に来られた時、上を見上げて「ザアカイ、急いで降りてきなさい。あなたの家に泊まりたい。」と声を掛けられた。ザアカイはどんなに嬉しかっただろう。「財産の半分を貧しい人々に施します」という告白からも分かる。イエスの心配りが、一人の罪人を素晴らしい人生へと招き入れたのである。(ルカ19:1以下)
 「傘は使い捨て」とビニール傘を気楽に使っている私だけど、「ヌレンザ傘」のような心籠った傘を持ったなら、雨の日も待ち遠しくなるのではなかろうか。

2017年6月18日 (日)

これも神様の置土産?

 神はどのような方であるかについて代表的な言い方に、次のような言葉がある。「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。」(出エジ34:6-7)この中の「忍耐強く」という言葉は、口語訳では「怒ること遅く」と訳されていた。個人的には口語訳の言葉の方が的を射ていると思う。何故なら、この言葉の後には「しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」と続いており、「神の怒り」に中心があると思われるからだ。同様に人間もまた「怒る」存在であり、「怒り」をコントロールできるかどうかは大切なことである。
 「脳の中には異なる時間や場所での記憶を互いに結びつける細胞の働きがある。『怒り』という感情を伴った記憶は同じ脳細胞の中にしまわれているため、何かの弾みでこの細胞が働き連鎖的に怒りを思い出してしまう」という。これは富山大学の井ノ口馨教授が発表した内容だが、「記憶を互いに結びつける細胞」が存在するから、怒りも増幅してしまうということになる。このことからすれば、「結びつける細胞」は、「不安・喜び・悲しみ」といった感情を様々な記憶の中から引出し結び付けることにより、豊かな感性の人にさせてれくれるものであり、目に見えず気づきもしなかったけれど、神様がより豊かな人間になるために与えてくださった「置き土産」だったのではないか。
 聖書にも「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(1テサロ5:16~18)と語られているが、この場合の「いつも・絶えず・どんなこと」を可能にするのが「結びつける細胞」ということになろうか。そしてこの細胞が働くように神様が送ってくださったものがある。即ち「助け主=聖霊」である。結びつける細胞、そして聖霊も神様がくださったもの、まさに「神様の置き土産」なのだから、意識して私たちが受け入れるなら、豊かな日々になるのでは!
 怒りをなだめるポイントは「徹底的によりそって話を聞く」「怒りの矛先をそらす」「『優しい』などとほめる」などだという。更に研究で「血糖値が下がると人は怒りやすくなるのだ」ということも分かってきている。飴玉差し出し、「どうしたの」と聞いてあげたら、あの人の怒りも少しは治まるかもしれない。

2017年6月11日 (日)

神様の置土産

 私が虫垂炎を患ったのは神学大学1年の時、9月に行われる「一日神学校」の前日だった。急にミゾオチが痛み出し、近所の病院に駆け込んだら「虫垂炎」と診断され、即入院手術となり、翌々日には退院し寮に戻ってきた。「大事な時に、あろうことか虫垂炎とは」と思う一方、「あってもなくても良いような臓器、この機に取れたのだから良しとしよう」と思ったものだった。
 私は素人だからつい「盲腸(虫垂)はあってもなくても良い臓器」と表現してしまったが、「盲腸の機能は良く分かっていない」ということが正確な表現だろう。人間は身体の全てを解明している訳ではないし、仕組みや働きには未だ未だ未知な部分が多くある。医学は確かに進歩しているが、「進歩は未知なことの発見」に繋がっているのではないだろうかと思う。そのようなことのひとつに、「内臓動脈」という血管がある。
 5年ほど前、天皇の冠動脈バイパス手術が行われた際に用いられたのが内蔵動脈であった。胸骨の裏側に縦に走っている血管がそれで、はがしてもその後の人体への影響はないと言われている動脈なのだという。だから冠動脈が詰まった時に替わりの血管として使えることが分かり、天皇の手術の際もこの動脈が使われてバイパス手術が行われたである。医学者の間ではこの内蔵動脈を「神様の置土産」と称されているのだという。「神様が、もし人類がはからずも長生きできるようになり、冠動脈が詰まる事態になった時、気がつくかどうかのクイズを出した、と勘ぐりたくなるようなもの」と、ある医者は記していた。未知なる機能が私たちの身体には沢山あること、だからこそ謙「神様の置き土産」と謙虚に受け止めることが、次への進歩に繋がっていくのではないかと思う。
 「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」(ヨハネ14:16~17)この言葉は弟子たちに与えてくださった約束であるが、「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることはできない。」とも言われておられる。せっかくの主の「置き土産」である聖霊を感謝して受け取る時に、苦悩の中にあっても先へと歩を進める力がいただけることを、聖書は私たちに告げてくれている。

2017年6月 4日 (日)

みちびき

 カーナビのついた車に乗るようになって、車の中から地図帳が消えた。当然と言えば当然なのだが、だからといってカーナビが絶対正しいと思っている訳ではない。新しい道路や建物は自動的には表記されないし(データー更新が自前で必要)、時折、現在地とは全く異なった所を走っているように表示されることもあるからだ。私のナビが頻繁に行う間違いは、教会から保育園に行く際に、江戸川を走行中のような画面が出ること。慣れているのでさほど気にせず(ナビ画面の上だけだが)江戸川を快適に走行させるものの、知らない土地で誤差があっても気付かずに走行させることになる。そんな誤差が生じるのも、カーナビに情報をもたらす衛星が、四六時中日本上空を飛行している訳ではないからだ
 その誤差を埋めるため、6月1日、「みちびき2号機」という衛星を載せた「H2Aロケット」が打ち上げられ成功した。今年中にあと2機打ち上げられ、誤差を数センチに縮めることを目標にしているのだという。カーナビのデーターは、米軍が軍事目的のために飛行させていた31機の衛星からの情報である。世界中で使用可能となったことから、現在のGPS(全地球測位システム)として活用されるようになったが、へき地やビルの谷間などでは正確な情報を得ることはできなかった。今回の衛星は日本とオーストリア上空を「八の字」に旋回させられ、残りの2機を打ち上げれば、ほぼ日本上空に24時間滞在させられる(一機の日本上空滞在時間は8時間)ようになることから、誤差数センチで情報を提供できるのだという。位置を正確に得られれば、様々な分野での自動化が可能となるだろうし、私の車のカーナビも江戸川を走行しているように表示することもなくなるだろう。その意味で、新しい衛星は、正確な「みちびき」手になると期待される。
 人生のという道程にも「みちびき」があることを私たちは知っている。「神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。」(使徒5:31)この方とはイエス・キリストであり、この方は神の右に挙げられた後、イスラエルのみならず全ての人のために、導き手である聖霊を送ってくださったのである。聖霊の助け、導きをいただいて、私たちは人生という道を安心して辿っていきたい。

2017年5月28日 (日)

聖別する

 先週の日曜日の午後、隣りの小岩教会の献堂式が行われ出席した。小岩教会は保育園を併設しており、一昨年夏から保育園を運営しつつ全面改築工事を開始した。牧師館部分を解体して保育園を新築、その後、礼拝堂と旧園舎を解体。先にできた保育園にくっつけるように礼拝堂(保育園の講堂兼用)と牧師館の工事が行われたと聞いている。私自身が教会の修復工事や法人施設の改築工事の経験があるだけに、工事に関する様々なご苦労に思いを馳せる。解体に伴う振動や騒音、近隣住民への配慮、工事中の園児の安全、教会活動の維持等々、牧師を始め会員の方々の労は多大なものであっただろう。それらの難題を乗り越えて、献堂の日を迎えられたことに心からお祝いを申し上げたい。
 ミニ・コンサートが行われた後、献堂式が行われた。新しい礼拝堂が建てられると行われる式であるが、礼拝堂の入口で祈りがなされ、十字架を先頭に入堂することもある。20数年前、北海道に居た頃、函館教会が建て替えられ新しくなった際、十字架を掲げて入堂する式が行われた。私は遠方だったために出席しなかったが、函館教会の代議員から「偶像崇拝ではないか」と常議員だった私に質問があった。十字架を掲げるという、日頃は目にする光景でなかったことが、そのような質問になったのではないか。「十字架は象徴であると同時に、これから礼拝堂で行われていくことの意味、即ちキリストの贖いと、そのことによってもたらされた罪の赦しの宣言を人々に知らせるために行われた」と説明して納得してもらった。小岩教会の献堂式では、入堂は行われなかったものの、礼拝堂と新しくなった聖卓・説教壇の聖別が、立山総会議長によって執り行われたが、「神に属し、神のために用いられる」ことを表すための大切な式であった。このことはキリスト者一人ひとりにも言えることであり、「神のために、隣人のために私を用いてください」と祈り、聖別された私が「誰かのために私の時間を用いる」日々に招かれていくことに繋がっているのである。
 多くの方々の出席を得て行われた献堂式。新しい出発の瞬間に立ち会えることは嬉しいことである。式を終え私自身も聖別された思いを与えられ、帰途に就いた。

2017年5月21日 (日)

道案内

 「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)先週の日曜日の福音書の個所である。その際に、道案内のことを取り上げて、私はこう語った、「最も良い道案内の方法は何でしょう。それは一緒に行ってあげることです。」と。とは言え、実際には言葉で説明したり、地図を書いて教えることが殆どである。時間がないからということもあるし、一緒に行くまでのことはないだろうと思うからである。また、道を聞いた人にしても、一緒に行って欲しいなどとは考えてもいないだろう。
 ところがその翌日、朝早くに犬の散歩をしていた時のことであった。バス通りの手前を歩いていたところ、軽トラックから降りてきた年配の運転手が、「すみません、ここに行きたいのだけど」と住所が書かれた紙を差し出してきた。「市川1丁目○番〇号」とあったので、駅周辺というのは予想がついたが、細かなことは分からない。そこでスマホの地図アプリで探し、それを見ながら、「ここから先の角を右へ行って・・・」と説明してあげた。無事に到着できるようにと願いつつ、私は散歩を続けたが、歩きながら前日の説教を思い出し、「神様も随分意地悪なことをなさるものだ」と思わず苦笑してしまった。
 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主はお御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。」(詩編23:1~3)この詩を読むと、「砂の上の足跡」という作者不詳の詩を思い出す。「歩いてきた道にはふたりの足跡、ひとりは彼、もうひとりは神。しかし彼が時に辛く苦しい時にはひとりの足跡しかない。神に問うと、あなたを背負って歩いたからだと。」
 羊飼いが羊を導くように、主は私たちを導いてくださると詩編の作者は語り、神は道を案内してくださるだけでなく、時には倒れ伏す私たちを助け起こしてくださると作者不詳の詩は語る。私たちの人生には素晴らしい道案内がいるのだから、この約束を恵みとして受け取り、信頼して委ねるようにと聖書はあなたに呼びかけている。
 あの日、私が道を教えてあげた方は無事に着いただろうか?いつかまた誰かに道を尋ねられたら、「一緒に行ってあげましょう」と言ってみよう。

2017年5月14日 (日)

〇〇ファースト

 今日は「母の日」。昨年まで僅かではあったが母にプレゼントを贈っていたが、今年は神様への執り成しの祈りを贈るだけである。いつかこのような日が来るとは分かっていたが、いざとなると寂しい気持ちが湧いてくる。小学生の頃は母に随分叱られた記憶がある。その一方、下級生の頃のクラス旅行などには母も同行していたらしく、集合写真に必ず母の姿がある。どのような経緯で同行したのかは分からないが、大切にされていたのだと思う。そんなことは何も私の母に限ったことではなく、多くの「母」にとって、我が子第一(ファースト)であるのが普通であろう。しかし、「ファースト」も時と場合によっては行き過ぎた事態を招き、「モンスター」と化してしまうことも周知のことである。
 今年の1月22日、「世界終末時計が残り3分となった」と発表された。核軍縮の取り組みが停滞し、温暖化を防ぐ取り組みが不十分であること等で、3年ぶりに2分短縮されたのである。終末時間は人類が生み出した技術によって世界が滅亡する時間を午前0時になぞらえ、残り「何分」と表示したものだ。それは人々の平和への希求の表れでもある。1952年に米ソが核爆弾の実験を行った時には「残り2分」まで近づき、米ソが戦略兵器削減条約に署名した1991年には17分になった。それなのに世界の歩みは再び終末に向かって加速している。今や世界を終わりに導く要因には、技術をどのように用いるかという人間の在り方もまた大きく関わっており、そのことも考慮されなければならないのではないか。その理由として感じるのは、「○○ファースト」という言葉である。誰しもが自分の幸福を願うし、それ自体は決して悪いことではない。しかしその際、隣人への配慮がなされているだろうか。独りよがりな自己防衛だけが独り歩きしていないだろうか。それが他者を抑圧し脅威となっていないだろうかと危惧するし、終末へ加速する源ではないかと思う。
 主イエスは経済的に貧しい者というだけでなく、「神無き」貧しき者(全ての人)に寄り添われた。主が寄り添われることで、彼らが再び生きる力を取り戻すようにと願われたからである。「貧しき者ファースト」、それが世界終末時計を巻き戻す力になるのではなかろうか。
 母たちの我が子への純粋な愛が、世界中で「ファースト」になったら素敵なのに!

2017年5月 7日 (日)

養われる

 連休後半、5月2日に庭のサクランボが一気に色づいた。前日までは、枝先の実が少し赤くなっていただけだったのに、僅か一日で手が届く高さの枝の実まで色づいた。今年も豊作、野鳥たちも歓呼の鳴き声を挙げながら、ついばみに飛来することだろう。
 じつは、保育園の子どもたちがサクランボ狩りを予定していたのが5月1日の火曜日。数年前までは、ゴールデンウィークの終盤頃に熟すことが多く、子どもたちが毎年のようにサクランボ狩りに来てくれていた。ところが数年前から、熟す日が少し早くなり、ゴールデンウィーク中に熟したサクランボの殆どが鳥たちに食べられてしまい、サクランボ狩りは叶わぬ夢となってしまっていた。それもあったので、今年は少し早めにと計画してくれたのだけど、一日違いで今年も夢となった次第。それでも折角だからとやってきた子どもたちは、保育士が木の上の方の熟した実を一粒ずつ口にすることができたのが、せめてもの慰めであった。自然が鳥たちを養うために、サクランボが熟す期をゴールデンウイーク中と定めたのなら、潔く諦めざるを得ない。
 それにしても鳥たちは熟す期を良く知っているものだと思う。調べてみると、鳥類の視力は人間よりもはるかに優れており、特にタカやワシなどの猛禽類の視力は人間の8倍、そして紫外線までも見ることが出来るのだという。つまり鳥たちが熟したときにサクランボを食べに来るのは、人間よりも優れた視力で観ているからだということになる。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」(マタイ6:26)聖書の時代の人々は、鳥の目の仕組みは知らなくても、鳥たちに素晴らしい能力を神が与え養ってくださっていることは知っていた。翻って現代の私たちはどうだろう。増えた自然科学の知識や発展した科学によって、未来を築こう(養おう)としているだけではなかろうか。武力や原発でなく、神が与えてくださった「平和を愛する心や豊かな自然」と共に、未来を築いていきたいものだ。
 サクランボ狩りが出来ず子どもたちは残念だっただろうが、一粒食べられたことに満足して帰園する彼らの姿は、大人の私たちが忘れてしまっている「養われていることに感謝する」姿そのものなのだと教えられた今年のサクランボ狩り計画であった。

2017年4月30日 (日)

解き放つ

 先週、教会の皆様のお許しをいただいて、再度佐賀へ帰ってきた。家に戻る前、姉弟と三人で父の実家である薩摩川内市へ、実家に居る叔母に母の形見分けの品を届けるために、そして祖父母の墓参りをするために姉の車で向かった。目的はもう一つあって、薩摩川内市は私たち姉弟が幼少の頃に住んでいた地であり、私自身は「生まれてから5歳までと中1の春から中2の夏まで」、姉も弟もそれぞれに記憶を辿ってみようという旅であった。二つ違いの姉と弟の記憶は、私と重なることもあれば、三人三様の記憶になっていることもあって楽しい旅となった。
 8年前亡くなった父は長男だったが公務員になり、実家を離れて佐賀に居を構えた。父の代わりに家を継ぎ、墓守をしてくれたのは一番下の娘(叔母)であった。その墓に父が入ることを望まなかったのは、「自分が行わなければならなかった墓守を妹がしてくれている」という負い目があったからだろうと私は思っていた。しかし今回墓参りをして、父の思いは違うところにあったことに気付かされた。それは、「私たち子どもが墓守の苦労をしないように、自分はその墓に入らないと決めたのではないか」ということであった。田舎の墓は、墓地に身を寄せ合うように墓石が建てられている。地域の人々は、どの墓石がどの家のものと瞬時に見分けられる。手入れしているかどうかも直ぐに分かるし、何かあれば共同で負担し維持しなければならない。薩摩川内市から遠く離れた地に居住し、簡単に帰省できない私たちに、「墓守の負担は掛けられない」というのが父の本音だったと推測するのは容易なことだった。父が意を決して下してくれた決断によって私たちは「古い縄目から解き放たれた」ということに気付かされたのであった。
 「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」(マタイ9:17)イエスは古いものを破棄して新しいものを作られたのではなく、古いものを活かすために新しいものを用意する必要を知っておられた。そのことによって人々は「新しい救い=十字架による罪からの解放と救い」を得ることができたのである。古き良きものを大切にしつつも、縄目となるものから解き放たれることによって、み言は常に輝きを増していくことだろう。
 母の死で実家は無くなったが、子を想う父の気持ちを私も我が子に伝えたい。

2017年4月23日 (日)

メカニズム

 米カリフォルニア大学バークレー校の機械工学の研究者が、「靴紐がなぜ突然ほどけるか」という謎を解明したというが、きっかけは三年前、幼い娘に靴ひもをちゃんと結ぶよう教えたけれども、何度教えてもひもがほどけることに気付いたからだった。いろいろ調べたが、ひもの結び方については説明されていても、ほどける理由について説明したものは無かったので、二人の大学院生とこの謎に取り組んだ。その結果、着地した時にかかる重力で結び目がゆるみ、足を前後に動かした時にかかる紐への遠心力が働いて、どんなに堅く結んだひももほどけてしまうのだが、メカニズムは発見したものの、結び目の強度を力学的に表す「魔法の数式」を発見するにはいたっていないという。この研究者が「魔法の数式」を解明しようとしているかどうかは知らないが、素人には「だからどうなの?」としか思えないこの発見が、いつか大きな事に繋がっていく・・・のだろうか?
 様々な事象のメカニズムを解明することで、人類は進歩を遂げてきたと思う。色々な病気にも研究者の地道な努力によって克服されてきたし、生活も楽になってきている。その一方、解明することが必ずしも人類の幸福に繋がらないということは、原子力発電や核開発が教えてくれてもこいる。問われていることは、その研究が人類の繁栄と平和のためであるかどうかということと、その研究を行う者や用いる者に良心が働いているかどうかだろう。そのために今も多くの方が、様々な「不思議のメカニズム」を解明し、人類の幸福のために働いてくださっていることに感謝したい。
 「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:37~40) 旧約の時代の人々は、人間には神が必要であることを知っていた。イエスは更に神と人を愛することこそが、人として生きるための大切なメカニズムなのだと二つの掟を語られたのである。それを受け入れた時に信仰が生まれ、信仰のメカニズムの中で生きる時に、私たちは「苦しみに耐えることができる」(Ⅱコリ1:6)のである。

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