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2018年7月 1日 (日)

ミッシングワーカー

 「いつでもこちらに来て良いよ」と、一人住まいの母に電話を通じて声を掛けていた。母も電話先で「二階に上がることも、押し入れから布団を出すことも、そして近所に買い物に行くことも難儀だ」と愚痴を言うようになっていた。しかし、住み慣れた自宅、ご近所との家族以上の付き合い等を考えると、寝たきりにならない限りは我が家に来ることはないということも分かっていた。だからといって、いざ寝たきりになったから牧師館で介護するというのは困難があるため、介護付き老人ホームをネットで検索していた。しかし母は、寝たきりになる前に、昨年春亡くなった。最後は長男の私が介護すると決めていたものの、実際に介護生活となっていたらどうだったのだろう。
 「ミッシング・ワーカー(消えた労働者)」という労働経済学上の概念がある。仕事をしていない労働力のことで、失業者にもカウントされないため、国の失業率では見えてこない。現在、103万人もいると言われ、その多くが親の介護がきっかけだという。親孝行のためというだけでなく、職を辞めたいと思っていたとか、ちょうど派遣が切れたとか、様々な理由から介護生活が始まる。親の年金で生活する訳だから、自分の人生設計、贅沢を諦めることになるが、意外と生きられると気付くのだという。他人と会うこともなくなり身だしなみにも気を使わない。社会から隔絶され、やがて親が亡くなると社会復帰もできず、生活保護を受給して生きていくことになる。「どうしてこんなことになったのだろう」と嘆きつつも、そこから逃れられない依存性のある日常になりえるのだという。(NHKドキュメント6月5日より)
 「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19:10)こう言ってイエスは徴税人ザアカイの家に向かわれた。徴税人であるが故に地域社会から弾かれていた彼の家に、客が訪れたのは久しかったに違いない。消えていた彼の存在を、イエスは「あなたの家に泊まりたい」とおっしゃることで、「ザアカイ」として生きる力をくださった。その日、彼に「救いが訪れた」。
 失われた人々に注がれたイエスの眼差しを、弟子たちは引き継いでいった。主の眼差しの先にいた人々に、私たちも、そしてこの社会全体が心を寄せていけたら、「この世に救いが訪れた」と神が愛でてくださるのではないか。

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