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2018年4月 1日 (日)

続もう、いない

 今年のイースターは年度始めと重なった。牧師になって初めての経験である。だから昨日の第五土曜コンサートの際、「4月1日がイースターで、3月31日が土曜日になるなんて、これから生きている間に経験することはありません」と言い切ってしまったが、調べてみると2029年も4月1日がイースター!あと11年しか生きられないと言い切ってしまったようなもの。次回、訂正しておかなければ!それは兎も角、チャプレンを務めている保育園では、昨日まで年長だった子どもは「もう、いない」。寂しくもあるが、しかし成長の証し。「もう、いない」は嬉しいことでもあるのだ。
 「タイムマシンに一度だけ乗れるとしたら、どの時代のどこに行きたいか?」以前読んだ本にそんな文章が乗っていた。著者の答えは「キリストの復活の朝、墓から出る瞬間のイエスをみたい」であった。聖書には、復活の朝、人々が目にしたのは空の墓であり、白い長い衣を着た若者に「ここにはおられない。」(マルコ16:5-6)と告げられたことが記されているのみであるから、その瞬間を見てみたいと思うのも無理からぬ面があるし、うがった見方をすれば、「本当に主は復活なさったのか」という疑念を晴らしたいという思いもあるのかもしれない。
 主が十字架に付けられ、死んで墓に葬られ、その上、墓から死体も無くなったということによって、弟子たちの悲しみや恐れも心の中に広がったことであろう。まさに「心が折れた」状態ではなかっただろうかと想像する。しかし、その彼らが再び弟子として宣教の最前線に向かっていくことが出来たのは、取りも直さず復活の朝に語られた「ここにはおられない・・・もう、いない。」という出来事(言葉)であった。心を折られた弟子たちだったが、「イエスこそ救い主」と力強く語り始め、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。」(マタイ28:19)ということのために、迫害をも恐れず宣教の歩みを続けていった。弟子たちの姿を知るだけで、キリストが墓を出る瞬間を見なくても私には十分だと思えてならない。
 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)と主はまた言ってくださってもいる。だから「ここにはいない」は「いつも一緒にいるために、ここ(墓)にはいない」のであって、復活の朝の今日、その主を喜んで迎え入れようではないか。

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