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2017年11月19日 (日)

翻訳

 日本マンガを英語に翻訳しているフレデリック・ショット氏の言葉を紹介する。「マンガで難しい点の1つは絵が主体だということ。翻訳者は自分が訳すことばよりも絵のほうが重要だと認識しなければならない。もし翻訳されたことばが絵に合っていなければ、読者は違和感を覚える。吹き出しの中に納まるよう、言葉を凝縮しなければならない。」(NHKテレビより)マンガには「絵」という誰にでも見えるものが存在する。絵には漫画家の思いが込められており、絵の主旨を吹き出しの言葉が表現しているといえようか。だからこそ「絵が主体」という姿勢を貫き続けることこそが大事なことであり、異なった言語の人々にも受け入れられるのだろう。
 聖書も翻訳されたものである。言葉としてはヘブル語やギリシャ語の聖書が底本(拠り所となる書物)と言われ、それは「すべて神の霊の導きの下に書かれ」(Ⅱテモテ3:16)たのであり、それを基に翻訳され全ての国々に届くようにされたものといえる。忘れてならないことは、主体は「神ご自身・神の思い」であるということであって、どのような言葉に翻訳されようとも「神が主体」という立場は変わらない。
 ルターは聖書をドイツ語に訳し、それが「標準ドイツ語」となったと言われている。私にはルター訳聖書の言葉の「美しさや格調」については分からないが、当時の人々にとっては平易な言葉であったからこそ人々に歓迎されたのではないかと思う。とはいえ単に易しければ良いというのでもない。ルターが明確に福音を知り、揺るぎない信仰に立っていたからこそ、素晴らしい翻訳聖書になったのであり、また人々が語りたくなるような「言葉」であったからこそ、標準ドイツ語にもなりえたのだろう。その意味でもルターの「翻訳作業」が、宗教改革を推し進めていく原動力であったと言えるだろう。
 聖書を原語から翻訳する力は私にはないが、労して日本語にしてくださった聖書を市川教会という群れのために「翻訳」する作業を、毎週に日曜日に行っている。所謂「説教」である。説教が聖書の説明や解釈になることなく、「神ご自身・神の思い」をこそ主体とした相応しい言葉を語ることが出来るようにと祈りつつ、礼拝に備えていきたい。

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