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2017年10月 1日 (日)

主が開いてくださる

 月に一度、保育園の子どもたちが礼拝のために教会にやってくる。9月末、保育園から「今日は月組(4歳児)と光組(5歳児)○○名でこれから教会へ行きます。」と連絡を受け、子どもたちを迎えるために会堂の準備を始める。聖壇を整え、冬ならストーブ、夏はエアコンのスイッチを入れるのだが、その日は秋の青空が広がり爽やかな空気に包まれていたので、「エアコンよりも窓を開けて爽やかな空気で子どもたちを迎えてあげよう」と、会堂の窓を開けることにした。先ずは一階の礼拝室の窓。次に集会室の窓を開けた時、不意に神学生として市川教会に通っていた頃(ほぼ40年前)の日曜日の懐かしい風景が蘇ってきた。開いた窓の前に古財牧師がいて、日曜学校の教師であった私たち数名の青年が、あれこれ話し合っていた風景を…。教会の窓を開けたら記憶の窓を主が開いてくださり、「私の市川教会の原風景」を見せてくださったみたいであり、窓から吹き込んでくる秋風にしばし身を委ねた。
 フィリピという都市にリディアという婦人がいた。ある日彼女がいつものように川岸の祈る場所にいた時、一人の男性が近づいてきた。彼の名前はパウロといった。彼は「イエスが死者の中から復活し、神の子であった」ということを熱心に話した。その時、「主が彼女の心を開かれた」ので、パウロの話を注意深く聞き、ついにはリディアもその家族も洗礼を受けた。(行伝16:11~15)心を主が開いてくださるのだが、私たちはリディアのように開いてくださった心を受け入れているだろうかと思う。
 私たちは洗礼を受けてクリスチャンになる。その際、私たちが心しておくことは、「洗礼は私が決断したのではなく、主が与えてくださったものである」ということである。換言すれば、「主が心を開いてくださらない限り、洗礼は起こらない。」ということにほかならない。だから「洗礼を受けたい」という思いを告げられたら、それだけで十分だと理解し、洗礼を授ける。ただし、洗礼を受けてクリスチャンとしてその後どのように生きるかということは、教会の責務として伝えていく。そうして教会は二千年の歩みを繋いできたのだと思う。洗礼を受けた後も、主が開いてくださる心は、様々な事柄の中に恵みを見出せてくださる筈である。
 窓を開けて迎えた保育園の子どもたちの反応は、「暑いね!」の一言であった。記憶を辿り感慨深さにふけった私の時間が、ガラガラと崩れ落ちていった……。

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