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2017年10月 8日 (日)

排除しない

 「罪人」という言葉は元々は「目的を外す」という言葉である。「神が望んでおられる人間の目的から外れて生きている者」ということになる。そして最初の人間アダムが罪人であったように、「罪」から無縁な人間は誰もいないことを聖書は告げている。しかしそのことを理解するまでには、ルターの誕生を待たなければならなかった。それまで殆どの人々は「律法を守り尽くすことで罪人から離れて義人になる」と受け止めていたからである。その結果どうであったか。
 「神様、わたしはほかのひとたちのように、奪い取る者、不正な者、貫通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」とファリサイ派の人は祈った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と徴税人は祈った。(ルカ18:9~14)律法を守り尽くすことを目的としたファリサイ派の人は、罪人や徴税人を断罪し除外してしまった。その振る舞いは神に成り代わったかのようであった。徴税人は自らを振り返り神の目的から外れてしまったことを悔い、罪人であることを告白し神の前にひざまずいた。その結果、義とされたのは徴税人であった。
 だからといってイエスは、神がファリサイ派の人を排除されるのだということを言うためにこの話をされたのだろうか。答えは「否」である。イエスはこう言われ、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい」(マタイ11:28)と。ファリサイ派だから徴税人だから排除するということはない。いや、神様の前においては、全て罪人であってかけがえのない「あなた」なのだと。
 「排除します。」新しく立ち上げた政党の党首がためらわず、しかも表情も変えずに言い放った言葉を聞いた瞬間、私の心は凍った。「一緒に活動することはしません」等々、言い方はあるだろうと思いつつ、「この人には思想信条が合わない人は人間ではなくゴミのように排除して良い存在でしかないのだ」としか思えなかった。私たちは「共に生きる社会」をこそ求めていきたい。
 今日も「イエスの死による贖いから排除される人などいない」と教会の塔屋のてっぺんから、十字架が道行く人々に呼びかけている。

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