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2017年9月

2017年9月24日 (日)

速やかに

 「神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。」(詩編70編6節)危機に瀕した詩人の叫びである。誰にも危機は訪れる。私たちは誰に「助けて!」と叫んでいるだろうか。
 「台風襲来」と予報を聞いていたものの、さほどの備えもしないままに寝付いた先週日曜日の夜。深夜に激しい風が吹いていたのを夢心地で聞きながら迎えた翌朝、寝ぼけ眼の私だったが、「屋根が壊れた!」という妻の一言で覚醒。「それは大変」と外にでてみると、牧師館の軒の一部が損壊しているのが見えた。地面には破片が落ち、軒天を支えていた金属板の一部がぶら下がったままであった。現状を見て屋根の上が壊れていたのではなかったので少しホッとしたが、そうはいっても早急に修理しないと雨風によって被害が増すことは確実である。休日ではあったが早々に馴染みの工務店に電話すると、「明日、伺います」と返事をいただき、一先ず安心した。ところが、それから間もなくして工務店のご主人が状況を見に来てくださった。「屋根と言われたのが気になって、とにかく様子だけでも見ておこうと思って」と。被害の様子を丹念に見た後、出来るだけ早く手配しますとおっしゃってくださった。「本当にありがたい!」と心から思ったものであった。
 アダムを造られた神は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2章)と言われた。即ち「人は助けを必要とする存在」として造られたのだから、助け手を心しておくことは必定のことなのである。ルターもまた、困った時や誘惑にあった時に対して、「誘惑に襲われたら、仲間を捜しなさい。自分の部屋、家を出て、友人を捜しなさい!誰かと話しなさい!」と忠告してくれている。私たちが助け手を必要とするからであるし、それは神様の御心に適うものなのであって、しかも神は速やかに助けを送ってくださる。詩編の詩人の叫びを、私たちの叫びを、神が聴いておられない筈はないからだ。ただし、その助け手に私たちが気づいているかどうかは別の問題であるが…。
 速やかに来てくださった工務店さんの配慮により、工事に直ちに取り掛かってくださった。その存在があるだけで、どんなに心強いことかと感謝している。

2017年9月17日 (日)

あなたを知っている

 10日午後、千葉教会で今年の総武地区合同礼拝が行われた。講師の湯川先生はルター研究所の所員で、ルター関係の書物をいくつか著しておられる。今回は「ルターの家庭生活」と題して講演してくださった。神学的なことよりも日常的なことやルター夫妻の心象に触れてくださり、興味深い1時間半の講演であった。
 講演後、先生が私の所にも挨拶に来てくださったので、恐縮しつつ「初めまして」と挨拶したら、「いえ、私は何度かお会いしてますよ」と。だとしたら私が忘れてしまっていたのだということなので、「申し訳ありません」と失礼を詫びた。すると「いえ、市ヶ谷教会に先生がお出でになった時にお見掛けしてるだけですから。」とのこと。そういえば、市ヶ谷の牧師就任式に礼拝に行ったこともあるし、「東教区宗教改革記念礼拝」の担当常議員だった時にも市ヶ谷教会に伺ったことがあった。市ヶ谷教会員である湯川先生が、私に何度も会ったとおっしゃったことも納得がいく。弁解する訳ではないが、私の方は多くの人の中のおひとりが湯川先生であったがゆえに、記憶がないのも仕方がないことではないか!そんなやり取りがあったからという訳ではないが、親しみやすい先生の著書を少し買い求めてみようと思いつつ帰路に付いた。
 エレミヤを預言者として召された時、「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。」(エレミヤ4:5)と神は言われた。エレミヤは特別な人だったから神はご存知であったのだろうか。木の上にいたザアカイに「ザアカイ、急いで降りてきなさい。」(ルカ19:5)と声をお掛けになったが、徴税人の彼をどうしてご存知であったのだろうか。数十人の方とお会いしてもその一人ひとりを知ることには困難さを覚える私からすれば、神様は一体どうやって見分けておられるのだろうかと思ってしまう。「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」(エフェソ4:7)と聖書には約束されている。つまり、全能の神は私たちにははかり知ることのできない力で、私たちを知っていてくださるということに他ならない。だから、神様がどのように私のことをお知りになるのかを考えることよりも、「あなたを知っている」と語ってくださる神に信頼して祈り続けることこそが、私たちの歩む道であろう。

2017年9月10日 (日)

染み込む

 市川市から「登録有形文化財市川教会の紹介をテレビで行いたい」と申し込まれ快諾した撮影が、先日行われた。15分ほどの放送(教会部分は10分程度)だが、台本も用意され、撮影も5時間(私が説明している部分は3時間)に亘って行われた。教会の隅々まで(防空壕跡の中も聖壇の床下も)撮影していかれたので、出来上がりがとても楽しみである。女性のナレーターの方が最初に会堂に入られた時、とても感激してくださり、同時に「とても暖かく懐かしい感じがします」と言っておられたが、木の温もりがそんな感情を起こしてくれたのだろう。会堂の痛みが激しく将来のことを数年かかって検討し「修復」の道が開けた頃のことを、彼女の声を聞きながら思い出していた。
 実はこの撮影の三日前にも、「東京および近郊の教会百選(仮)」という写真に市川教会会堂を掲載したいので撮影したいと申し出があり、一人の写真家が撮影に来られた。撮影の前に教会内を案内していた時、ペンキの禿げた所や傷を見ながら「木造の教会は傷ついたところが沢山ありますね。でもこれは信仰が染み込んだ印だと思います。」と言ってくださった。日本キリスト教団S教会の長老だと自己紹介されていたので、その方の教会に対する深い思いを聞かされたように思えた。一般の方には温かさを、そしてクリスチャンには私たちの群れの歩みを、会堂は何も語らずとも伝えてくれているのである。
 肉体も心も絶えず傷つきながら、私たちは地上の歩みを続けている。多くの傷は癒され消えてしまうが、傷跡として残り続けるものもある。まして心の傷は奥深くに潜み、何十年も人の心を支配し、自らを責め苛(サイナ)み「罪の刃」となることもある。傷が染み込んでいるからである。しかし私たちは主を知っている、私たちの傷を負い、その罪を十字架に付けてくださった主を。だとすると、私たちの傷の数だけ、傷の深さだけ、恵みは大きくその数だけ与えられている徴とは言えまいか、「打ち砕かれた心の人々を癒し、その傷を包んでくださる」(詩編147:3)とあるように。「あなたの傷には恵みもまた染み込んでいる」と、祈りの中で主の声を聞ける幸いを私たちはいただいているのだ。
 教会紹介の放映は11チャンネル、16~22日の10時・12時・20時・22時です!

2017年9月 3日 (日)

警報

 8月末、熊本に研修に行った折、昨年四月の震災報告があった。併せて余震は今も続いており、今年6月まで4347回もあったことを伺った。大変なご苦労に心を馳せつつ、同時に余震の多さに驚かされたが、私が心に浮かべたのは、緊急地震速報の警報音であった。東日本大震災の折、この地域でも何度も耳にしたからだ。熊本の方たちはあの警報音を何度聞かされ、その都度どんな心持ちにさせられたかと思った。
 突然鳴り出す警報音に、小心者の私はひたすら「大地震でないこと」を願いつつ、揺れの瞬間をやり過ごすだけである。警報音が鳴った時の行動指針には、まず「びっくりしないでください。」と書いてあるが、警報音がトラウマとなりびっくりせずにはいられない。熊本の方々もこのトラウマを抱え込んでおられるのではないかと案ずるが、だからといって慣れてしまっては警報の意味も無くなる。痛しかゆしである。
 8月29日未明、12道県の住民にJアラートが送信された。メールには「ミサイル発射。北朝鮮からミサイルが発射された模様です。頑丈な建物や地下に避難して下さい。」と書かれていたという。恐らく殆どの方が「とはいっても、どうすれば良い?」と戸惑ったに違いない。「牧師館より教会が頑丈だろうから、教会に逃げ込むか!そういえば防空壕跡に長靴履いて逃げれば良いか!」と思った私だが、Jアラートのメールには文章に欠落がある。先のメールは「屋外にいる場合」なのであって、屋内の場合は、「窓から離れ、窓の少ない部屋に逃げる」ということが緊急の対処法であるという。ともあれいきなりの警報音にびっくりしないで行動するのは難しい。日頃から「警報はいつでも鳴る可能性がある」と心するしかないか。
 預言者エレミヤは、偶像崇拝を続ける民に繰り返し「神から離れることがないように」と警告し続けた。しかし人々はエレミヤのことを笑うばかりであった。やがてバビロニヤのネブカドネツァル王によりエルサレムは陥落し、バビロニヤに連れ去られてしまう。神からの警告を軽んじた結果であった。エレミヤの言葉を、神からの言葉と受け止められなかった民であるが、それでもエレミヤは彼らを捨てることはなかった。警告(警報)に、「あなたのために」という愛が込められていたからである。
 Jアラートの心配がない関係をと願わずにはいられないが、それ以上にJアラートで危険を煽り防衛費を増強しようなどという目論みがはあってはならないが!

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