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2017年5月

2017年5月28日 (日)

聖別する

 先週の日曜日の午後、隣りの小岩教会の献堂式が行われ出席した。小岩教会は保育園を併設しており、一昨年夏から保育園を運営しつつ全面改築工事を開始した。牧師館部分を解体して保育園を新築、その後、礼拝堂と旧園舎を解体。先にできた保育園にくっつけるように礼拝堂(保育園の講堂兼用)と牧師館の工事が行われたと聞いている。私自身が教会の修復工事や法人施設の改築工事の経験があるだけに、工事に関する様々なご苦労に思いを馳せる。解体に伴う振動や騒音、近隣住民への配慮、工事中の園児の安全、教会活動の維持等々、牧師を始め会員の方々の労は多大なものであっただろう。それらの難題を乗り越えて、献堂の日を迎えられたことに心からお祝いを申し上げたい。
 ミニ・コンサートが行われた後、献堂式が行われた。新しい礼拝堂が建てられると行われる式であるが、礼拝堂の入口で祈りがなされ、十字架を先頭に入堂することもある。20数年前、北海道に居た頃、函館教会が建て替えられ新しくなった際、十字架を掲げて入堂する式が行われた。私は遠方だったために出席しなかったが、函館教会の代議員から「偶像崇拝ではないか」と常議員だった私に質問があった。十字架を掲げるという、日頃は目にする光景でなかったことが、そのような質問になったのではないか。「十字架は象徴であると同時に、これから礼拝堂で行われていくことの意味、即ちキリストの贖いと、そのことによってもたらされた罪の赦しの宣言を人々に知らせるために行われた」と説明して納得してもらった。小岩教会の献堂式では、入堂は行われなかったものの、礼拝堂と新しくなった聖卓・説教壇の聖別が、立山総会議長によって執り行われたが、「神に属し、神のために用いられる」ことを表すための大切な式であった。このことはキリスト者一人ひとりにも言えることであり、「神のために、隣人のために私を用いてください」と祈り、聖別された私が「誰かのために私の時間を用いる」日々に招かれていくことに繋がっているのである。
 多くの方々の出席を得て行われた献堂式。新しい出発の瞬間に立ち会えることは嬉しいことである。式を終え私自身も聖別された思いを与えられ、帰途に就いた。

2017年5月21日 (日)

道案内

 「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)先週の日曜日の福音書の個所である。その際に、道案内のことを取り上げて、私はこう語った、「最も良い道案内の方法は何でしょう。それは一緒に行ってあげることです。」と。とは言え、実際には言葉で説明したり、地図を書いて教えることが殆どである。時間がないからということもあるし、一緒に行くまでのことはないだろうと思うからである。また、道を聞いた人にしても、一緒に行って欲しいなどとは考えてもいないだろう。
 ところがその翌日、朝早くに犬の散歩をしていた時のことであった。バス通りの手前を歩いていたところ、軽トラックから降りてきた年配の運転手が、「すみません、ここに行きたいのだけど」と住所が書かれた紙を差し出してきた。「市川1丁目○番〇号」とあったので、駅周辺というのは予想がついたが、細かなことは分からない。そこでスマホの地図アプリで探し、それを見ながら、「ここから先の角を右へ行って・・・」と説明してあげた。無事に到着できるようにと願いつつ、私は散歩を続けたが、歩きながら前日の説教を思い出し、「神様も随分意地悪なことをなさるものだ」と思わず苦笑してしまった。
 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主はお御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。」(詩編23:1~3)この詩を読むと、「砂の上の足跡」という作者不詳の詩を思い出す。「歩いてきた道にはふたりの足跡、ひとりは彼、もうひとりは神。しかし彼が時に辛く苦しい時にはひとりの足跡しかない。神に問うと、あなたを背負って歩いたからだと。」
 羊飼いが羊を導くように、主は私たちを導いてくださると詩編の作者は語り、神は道を案内してくださるだけでなく、時には倒れ伏す私たちを助け起こしてくださると作者不詳の詩は語る。私たちの人生には素晴らしい道案内がいるのだから、この約束を恵みとして受け取り、信頼して委ねるようにと聖書はあなたに呼びかけている。
 あの日、私が道を教えてあげた方は無事に着いただろうか?いつかまた誰かに道を尋ねられたら、「一緒に行ってあげましょう」と言ってみよう。

2017年5月14日 (日)

〇〇ファースト

 今日は「母の日」。昨年まで僅かではあったが母にプレゼントを贈っていたが、今年は神様への執り成しの祈りを贈るだけである。いつかこのような日が来るとは分かっていたが、いざとなると寂しい気持ちが湧いてくる。小学生の頃は母に随分叱られた記憶がある。その一方、下級生の頃のクラス旅行などには母も同行していたらしく、集合写真に必ず母の姿がある。どのような経緯で同行したのかは分からないが、大切にされていたのだと思う。そんなことは何も私の母に限ったことではなく、多くの「母」にとって、我が子第一(ファースト)であるのが普通であろう。しかし、「ファースト」も時と場合によっては行き過ぎた事態を招き、「モンスター」と化してしまうことも周知のことである。
 今年の1月22日、「世界終末時計が残り3分となった」と発表された。核軍縮の取り組みが停滞し、温暖化を防ぐ取り組みが不十分であること等で、3年ぶりに2分短縮されたのである。終末時間は人類が生み出した技術によって世界が滅亡する時間を午前0時になぞらえ、残り「何分」と表示したものだ。それは人々の平和への希求の表れでもある。1952年に米ソが核爆弾の実験を行った時には「残り2分」まで近づき、米ソが戦略兵器削減条約に署名した1991年には17分になった。それなのに世界の歩みは再び終末に向かって加速している。今や世界を終わりに導く要因には、技術をどのように用いるかという人間の在り方もまた大きく関わっており、そのことも考慮されなければならないのではないか。その理由として感じるのは、「○○ファースト」という言葉である。誰しもが自分の幸福を願うし、それ自体は決して悪いことではない。しかしその際、隣人への配慮がなされているだろうか。独りよがりな自己防衛だけが独り歩きしていないだろうか。それが他者を抑圧し脅威となっていないだろうかと危惧するし、終末へ加速する源ではないかと思う。
 主イエスは経済的に貧しい者というだけでなく、「神無き」貧しき者(全ての人)に寄り添われた。主が寄り添われることで、彼らが再び生きる力を取り戻すようにと願われたからである。「貧しき者ファースト」、それが世界終末時計を巻き戻す力になるのではなかろうか。
 母たちの我が子への純粋な愛が、世界中で「ファースト」になったら素敵なのに!

2017年5月 7日 (日)

養われる

 連休後半、5月2日に庭のサクランボが一気に色づいた。前日までは、枝先の実が少し赤くなっていただけだったのに、僅か一日で手が届く高さの枝の実まで色づいた。今年も豊作、野鳥たちも歓呼の鳴き声を挙げながら、ついばみに飛来することだろう。
 じつは、保育園の子どもたちがサクランボ狩りを予定していたのが5月1日の火曜日。数年前までは、ゴールデンウィークの終盤頃に熟すことが多く、子どもたちが毎年のようにサクランボ狩りに来てくれていた。ところが数年前から、熟す日が少し早くなり、ゴールデンウィーク中に熟したサクランボの殆どが鳥たちに食べられてしまい、サクランボ狩りは叶わぬ夢となってしまっていた。それもあったので、今年は少し早めにと計画してくれたのだけど、一日違いで今年も夢となった次第。それでも折角だからとやってきた子どもたちは、保育士が木の上の方の熟した実を一粒ずつ口にすることができたのが、せめてもの慰めであった。自然が鳥たちを養うために、サクランボが熟す期をゴールデンウイーク中と定めたのなら、潔く諦めざるを得ない。
 それにしても鳥たちは熟す期を良く知っているものだと思う。調べてみると、鳥類の視力は人間よりもはるかに優れており、特にタカやワシなどの猛禽類の視力は人間の8倍、そして紫外線までも見ることが出来るのだという。つまり鳥たちが熟したときにサクランボを食べに来るのは、人間よりも優れた視力で観ているからだということになる。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」(マタイ6:26)聖書の時代の人々は、鳥の目の仕組みは知らなくても、鳥たちに素晴らしい能力を神が与え養ってくださっていることは知っていた。翻って現代の私たちはどうだろう。増えた自然科学の知識や発展した科学によって、未来を築こう(養おう)としているだけではなかろうか。武力や原発でなく、神が与えてくださった「平和を愛する心や豊かな自然」と共に、未来を築いていきたいものだ。
 サクランボ狩りが出来ず子どもたちは残念だっただろうが、一粒食べられたことに満足して帰園する彼らの姿は、大人の私たちが忘れてしまっている「養われていることに感謝する」姿そのものなのだと教えられた今年のサクランボ狩り計画であった。

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