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2017年4月30日 (日)

解き放つ

 先週、教会の皆様のお許しをいただいて、再度佐賀へ帰ってきた。家に戻る前、姉弟と三人で父の実家である薩摩川内市へ、実家に居る叔母に母の形見分けの品を届けるために、そして祖父母の墓参りをするために姉の車で向かった。目的はもう一つあって、薩摩川内市は私たち姉弟が幼少の頃に住んでいた地であり、私自身は「生まれてから5歳までと中1の春から中2の夏まで」、姉も弟もそれぞれに記憶を辿ってみようという旅であった。二つ違いの姉と弟の記憶は、私と重なることもあれば、三人三様の記憶になっていることもあって楽しい旅となった。
 8年前亡くなった父は長男だったが公務員になり、実家を離れて佐賀に居を構えた。父の代わりに家を継ぎ、墓守をしてくれたのは一番下の娘(叔母)であった。その墓に父が入ることを望まなかったのは、「自分が行わなければならなかった墓守を妹がしてくれている」という負い目があったからだろうと私は思っていた。しかし今回墓参りをして、父の思いは違うところにあったことに気付かされた。それは、「私たち子どもが墓守の苦労をしないように、自分はその墓に入らないと決めたのではないか」ということであった。田舎の墓は、墓地に身を寄せ合うように墓石が建てられている。地域の人々は、どの墓石がどの家のものと瞬時に見分けられる。手入れしているかどうかも直ぐに分かるし、何かあれば共同で負担し維持しなければならない。薩摩川内市から遠く離れた地に居住し、簡単に帰省できない私たちに、「墓守の負担は掛けられない」というのが父の本音だったと推測するのは容易なことだった。父が意を決して下してくれた決断によって私たちは「古い縄目から解き放たれた」ということに気付かされたのであった。
 「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」(マタイ9:17)イエスは古いものを破棄して新しいものを作られたのではなく、古いものを活かすために新しいものを用意する必要を知っておられた。そのことによって人々は「新しい救い=十字架による罪からの解放と救い」を得ることができたのである。古き良きものを大切にしつつも、縄目となるものから解き放たれることによって、み言は常に輝きを増していくことだろう。
 母の死で実家は無くなったが、子を想う父の気持ちを私も我が子に伝えたい。

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