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2017年3月26日 (日)

忖度(そんたく)する

 「相手の心を推し量ること」を忖度するという。最近問題になっているM学園に関して、「お役人が誰かの気持ちを忖度して」国有地の売買を安価な値段で契約したのではないか、学校認可に関しても同じようなことがあったのではないかと報道されている。私も関係する法人の土地購入に関することや様々な許認可に携わった経験から、役所の方と交渉することの大変さを実感してきた。だからといって安易に権力を用いるようなことはしてこなかったし、ましてや政治家の力があっても、簡単に事が動くだろうなどということは考えもしなかった。もちろん、私が牧師服を着て役所に出向いたとしても、決して忖度した判断をしてくれることなど一切なかった。法律規則に従って、粛々と事柄を処理されただけであった。そんな大変さを知っているだけに、M学園に対する優遇さは、私には想像すらできないことであって、たとえ記録が残っていないとしても何らかの「忖度」があったと思うのが自然なことであろう。
 「相手の心を推し量」り、心を寄せてくださった歩みをなさったのが主イエスであった。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタイ9:35~36)この後、イエスは弟子たちを派遣される(マタイ10:1以下)のだが、その根拠が「深く憐れまれた」からなのだと記されている。また、多くの人々がイエスの後を追ってくるのをみて憐れみ、五つのパンと二匹の魚を裂いて分け与えられたという出来事も、イエスの深い憐れみであった。(マタイ5:13~21)自分を守るためでも利益のためでもなく、むしろひたすらに隣人のために「心を推し量る」ことをなし続けられた。
 戦後、ルター派の神学者北村嘉蔵(かぞう)牧師は、「神はどこか遠くにおられ私たちの痛みなど感じることも出来ないようなお方ではなく、神さえ殺してしまうような罪人である私たちと共に生きてくださる方であり、十字架は神の痛みに基礎づけられた愛である」と主張した。所謂、「神の痛みの神学」といわれているが、「推し量る(忖度)」にとどまらず、十字架によって罪を贖うという大きな愛を示してくださったのである。痛みの伴わない忖度よりも、神の深い憐れみをこそ求めていきたい。

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