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2017年1月29日 (日)

弱さを誇る

 「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(2コリント12:9) 紀元50年頃、パウロはアテネ伝道の後にコリントへ入り、相当な勇気をもってユダヤ人の会堂で十字架の福音を語った。その結果、有力な教会が形成されるに至ったが、教会員の多くは異邦人であり社会的には地位の低い労働者や小市民であった。パウロはここに1年半後滞在したが、相当な人々が集うようになったことが推測される。その後、コリントの教会は分裂の騒動を起こしたりしたが、その都度パウロは書簡を送り指導している。第二の手紙を送った経緯も、どこからかやってきた教師たちがパウロの使徒の権威を否定し、コリントの教会の人々を彼から引き離そうとしたために、彼自身の使徒の権威を伝え彼らの過ちを正そうと記された。使徒の権威とは「私は弱いがキリストの力が内に宿っている」ということに他ならない。だからパウロは「わたしは弱いときにこそ強いからです」(同12:10)と続けるのである。
 キリストは病める人、貧しい人、悩む人の傍らに来てくださった。何よりも罪ある人間を救うために、「罪」という弱さを負ってくださった。だから、キリストは私たちが弱い時にこそ内に宿り、私たちを強くしてくださるのである。「弱さに寄り添うことによって強くなること」、キリスト者とは自らがそのことを体験し、更に自らが体験したことを隣人に実践する者のことを言うのだと改めて思う。
 エジプトを脱出し荒野に入ったイスラエルの民は、最初にアマレクと闘った。ヨシュアに率いられた民は勇敢に戦ったが、その際、モーセが丘の頂に立ち、神の杖を持った手を上げると優勢になり、手を下すとアマレクが優勢になった。(出エジプト10:8~)戦いを通して神はイスラエルの民に、「強さ」とは神が働いてくださることであって、それは民の「弱さ」の中にあるということを教えられた。寄り添ってくださる神の真の姿がそこにある。
 「アメリカ第一」という言葉が様々な場面に波及するかもしれない。寄り添うことを忘れたら、もはや本当の「強さ」が失われてしまうと懸念する今日此の頃。

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