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2016年12月18日 (日)

自由に振る舞う

 保育園のクリスマスでは、年長児が聖誕劇を行う。入れ替わりに登場する子どもたちが、セリフや歌や演技するタイミングなどを間違わずに覚えるために、どれ程の練習を積み重ねてきたことだろう。指導する担任の苦労に思いを馳せながら、聖誕劇を演じてくれた年長児さんたちに心からの拍手を毎年送る。子どもたちの記憶にも素敵な聖誕劇のことがしっかりと刻まれることだろう。
 聖誕劇の中で、羊飼いたちにイエスの誕生を知らせる天使と、博士たちの徴となる星が登場する。楽しい歌に合わせてダンスをするのだが、数年前から演ずる子どもたちが自由に踊るようになった。数人でどんな風に踊ろうかと相談している様を想像するだけで楽しくなるのだが、実際の姿をみると心が温かくなってくる。決まったことや決められたことをきちんとやることも素晴らしいことだけど、自由に振る舞うことはもっと素敵なことだ、と改めて思う。もちろんその自由は、自分勝手とは違うのは言うまでもない。
 「キリスト教的人間はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、だれにも服しない。キリスト教的人間はすべてのものに仕える僕(しもべ)であって、だれにでも服する。」ルターのキリスト者の自由の冒頭の言葉であるが、不思議な自由があるものだ、「自由と奉仕」という相反することが一つになるというのだから。この根拠になる言葉は「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷となりました。」(1コリント9:19)というパウロの言葉にある。その背景には、コリントの人々が偶像に供えられた肉を食べて良いかと相談したことに端を発している。そのような肉を食べることは自由だが、その事で人の心に混乱が生じてしまうのなら、自分の自由を放棄して食べないでおこう、「自由だがそれを使わない奴隷になろう」とパウロは言うのである。そのことに鑑みると、私たちも「自由」と「奴隷」の間で生きている。様々な時に与えられた自由をもって隣人に仕える僕となることを、私はこれからも誇りにして生きたい。
 聖誕劇で踊ってくれる子どもたち。彼女たちは知らないだろうが、自由に振る舞うその姿は、大人たちに喜びを与える「僕の姿」なのだということを。

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