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2016年12月11日 (日)

花嫁の父

 先日、次女の結婚式が行われた。次女は昨年の12月に入籍し既に新しい生活を始めたが、挙式は行わないということだった。「結婚式&披露宴」という形式を取らないのも一つの在り方だと私は思っていたが、どうやらそれは誤解だったらしく、結婚式のための費用が用意できたら行いたいということだったようだ。二人で働き今年、晴れて挙げることができるまでになり教会式での準備を行ってきたのだという。となると私も「花嫁の父」という役割が回ってくるとは思いつつも、殆ど意識しないままに挙式当日を迎えた。
 牧師は結婚式を執り行う。私もこれまでに多くの方々の結婚式を執り行ってきた。挙式前には結婚カウンセリングを行い、結婚の意義について、そして結婚式の段取りの相談を受けてきた。その際、「結婚式の入場はどうしますか?」と尋ねる。父親と歩くことが決まっている訳ではないし、父親のいない花嫁もいるからである。それでも父親がいるのであれば「お父さんと入場したい」とお願いしてみるように勧める。それは一緒に歩くという姿は「寄り添ってきた」ということの徴だし、何よりも「花嫁の父」を想像しながら娘さんを育ててきただろうからと…。そう言ってきたのだけれども、自分がその役回りを行うとは考えてもいなかった。
 司式は千葉教会小泉牧師が執り行ってくださった。「花嫁の父」である私だが、入場から退場まで「花嫁の父」で居ることはできなかった。何か失敗したとかではなく、つい「この聖壇の造りだと新郎新婦の動きはどうなるんだろう?宣言の時に二人の両手にどうやってストールを巻いてあげる?」等々と「お仕事」が顔を出してしまったからだ。式後に私の姉から「仕事の目で見ていたんじゃない?」とズバリと言われて、思わず苦笑してしまった。結婚を希望する多くの方々に「花嫁の父」のことを語りながら、私自身は挙式の間、牧師に戻ってしまい残念であったが、披露宴で娘が沢山の友達に準備のお手伝いを頂きながらこの日を迎えられたことを知り、一緒に歩いて来た道、親の役割の終わりを嬉しく受け止めた。
 寄り添い歩いてきた「花嫁の父」」は卒業だけど、寄り添うことは死ぬまで続けたいと思う。何よりもクリスマスは「寄り添ってくださる神」を知る時なのだから。

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