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2016年10月16日 (日)

 「どれほどの道を歩かねばならぬのか 男と呼ばれるために。どれほど鳩は飛び続けねばならぬのか 砂の上で安らげるために。どれほどの弾がうたれねばならぬのか 殺戮をやめさせるために。その答えは 風に吹かれて誰にもつかめない。」ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディラン氏の「風に吹かれて」という曲の一節である。この歌を良く聞いていたのは高校生の頃、学校の敷地内に建てられていた寮に住んでいた頃だった。ただし、深夜のラジオでよく流されていた英語のこの歌が反戦歌だと知ったのは数年後であったが・・・。
 彼が受賞した理由は「偉大な米国の歌の伝統に新たな詩的表現を作り出した。」(朝日新聞10.14.)ということである。受賞理由の意味自体は私にはよく分からないが、アカデミー賞の事務局長が「彼が偉大な詩人ということに尽きる。選考基準は変わっていない」(朝日新聞同日)と述べているように、歌の詩にスポットが当てられたことは素晴らしいことだと思う。日々沢山の歌が作られているが、その詩にスポットが当てられることは少ない。音楽(曲)の如何に心を奪われ、歌詞を吟味されることが少ないからだろう。しかし、作詞家たちは様々な苦労を経て一節の言葉を生み出していることは、歌詞だけを読むと伝わってくる。だからこそ、歌詞もまた「文学」に十分値すると、今回の受賞を喜びたい。
 礼拝や行事などでは大勢で、時には一人でふと口ずさむ、それが讃美歌である。聖書は神様からの贈り物であり、讃美歌は私たちが神様への贈り物だから、今の私の気持ちである感謝や懺悔、時には嘆きを讃美歌に託しているといえる。人が心を込めて生み出した言葉は、私たちの心を揺さぶるものである。言葉をかみしめながら讃美歌を歌ってみようと改めて思う。
 「どれほど人は見上げねばならぬのか ほんとの空をみるために。どれほど多くの耳を持たねばならぬのか 他人の叫びを聞けるために。どれほど多くの人が死なねばならぬのか 死が無益だと知るために。その答えは 風に吹かれて誰にもつかめない。」「風に吹かれて」の最後の一節である。これは神の嘆きの歌として私たちが聴くべき言葉ではないかと私は思う。

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