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2016年10月 2日 (日)

共に生きるために

 (ルカ17:1-10,2テモテ1:3-14,ハバクク2:1-4)
 「信仰を増してください」と使徒たちがイエスに願ったとある。どういう意味であろうか。この願いの前に、厳しい教えが語られている。だからその教えを守るには、今の自分たちの信仰では無理だという叫びであるのかもしれない。そのことは私たちも経験する。くずおれそうになるとき、不安や恐怖に襲われる時、迷いが生じた時、立ち向かうために信仰を増してくださいと願う。
 弟子たちは何があったから「信仰を増してください」と願ったのだろうか。日課の最初に二つの戒めがある。共同体の調和を乱す二つの困難があり、一つはメンバーの全てが成熟しているわけではないということから生ずるものである。信仰生活はそれぞれに違うし、成長過程も違う。成熟したメンバーの言動が、「つまずきを起こさせる原因となり、罪を犯すよう誘惑することになる」から気を付けて振る舞うことが勧められている。つまり神との関係を求めているものに対して、どのように振る舞うべきかということであり、自由の法よりも高い位置にある法があってそれは愛の法だということにほかならない。
 第二のことは、弟子たちが他の者に対して罪を犯すときに発生する問題であり、共同体のメンバーが他の者を滅ぼすことがあるのだから、そのためには他の者への責任ある対応、つまり愛が有効なのである。愛は、「正すために戒め、赦す。たとえそれが一日に7回繰り返されても。これもまた成熟したクリスチャンのこと」である。だからこそ弟子たちは信仰を増してと願ったのであった。
 イエスがお応えになった中に「もし」という言葉がある。①事実と異なる状況を表すこと、②事実に沿った状況を表すことという意味があるが、6節はこの後者である。「あなたは信仰をもっているのだから」と訳せる。つまりイエスは信仰がないことを厳しく咎めているのではない。彼らがもっている信仰を肯定し、その信仰の可能性を十分に生かすことを勧めるのである。彼らが既に得ている小さな信仰が働けば、海の中に木を植えることことを「ばかげている」と言わなくなるし、神の力に拠り頼むとはまさに「人の思いを越えて働いてくださること」を信じることに他ならない。神が与えてくださる信仰には、大小の違いなどありえないのであって、それが使徒(私たち)に生きる力をあたえてくれるのである。20161002_2
 最後に使徒の生き方について奴隷と主人の関係で述べられる。奴隷の時間と労働はその主人のものであり、満期の期限も存在しない。何よりもイエスご自身が仕える者として私たちの許に来られたのだから、彼に従う私たちも信仰によって仕える者になれると語られている。

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