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2016年10月 2日 (日)

股のぞきをやってみた

 先週掲載した「股のぞき」、どの位の違いがあったかというと、「目印が大きく遠くにあるほど目立ち45m離れた地点に置いた高さ1メートルの目印は高さ60㎝前後に感じる。」(朝日新聞9月29日)という事なので、私も「股のぞき」をやってみた。牧師館から会堂を見てみる。う~~ん、近すぎて変わったように見えない。道路に出て少し離れた所から会堂の方を見る・・・が、近くなった気がしない。もっと遠方を見ようと江戸川の土手に行く。人目を気にしながら、「エイヤッ」と股のぞき。視界には江戸川もビルもスカイツリーも逆さに映るものの大きさの変化は・・・感じない。フウとため息ついて体を挙げた瞬間、クラクラとめまい!
 たかが股のぞき、されど股のぞき!ほんの数秒、頭を逆さにしただけでクラクラするのは、人間の体が繊細に出来ており、微妙なバランスで直立歩行しているだけなのだと思い知らされる。更に言えば、像のように車でも潰してしまう程の大きな体ではないし、猛獣のような鋭い牙もない。亀のような堅い甲羅もなければ、チーターのように素早く走れる足もない。動物の中では弱い存在でしかない人間なのに、人はまるで神様のように自然界に君臨している。何故なのか。創世記によれば、「人は神に似せて造られ、あらゆる生き物を支配するように」(1:26~28)と役割を与えられたからである。その際、与えられたのが「知恵」であった。知恵は「人は助け合って生きる」ことを教えてくれたはずだったが、人はその知恵を用いて「武器」を創り、動物や他者を支配するようになってしまった。人に与えられた知恵から武器が生まれ、武器によって自分を守ろうとする世界、もはや人間が神に成り代わったかのような世界にしてしまった。「武器を持つ手からは神が望まれる平和な世界は生み出せない」と聖書は教えているし、人間の歴史もそれを証明しているのだが!
 「風が吹けば桶屋が儲かる」論理で言えばこうなる。「股のぞき」⇒「クラクラする」⇒「弱い自分を知る」⇒「武器より支えてくれる人が欲しい」⇒「互いに助け合うことが大事」⇒「争うよりも支え合う平和を」となるではないか。ここはひとつ、みんなで「股のぞき」をやってみたらどうだろう。その先にこそ神の望まれる平和な世界があるような気がするのだが。

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