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2016年9月 4日 (日)

旅立つ前に

 (ルカ14:25-33,フィレモン1-25,申命記29:1-8)
 熱心な群衆に囲まれているイエスだが、彼らの熱心さは自分のためであった。その熱心さは群衆となることによって、今や熱狂的なものとなっていた。だから、イエスが十字架へと向かっていることに12人の弟子たちも含めて人々は全く気付いていない。そんな群衆を見たからこそイエスは彼らに問いかけようとされている、「私の弟子になるということはどういうことか分かるか」と。
 熱心さは大切なものを見失わせる。かつてモーセが十戒をもらうために山に入った時、しばらく戻ることがなかった。人々はモーセが死んだと思い込み、「金の子牛」を造り出し神として崇めようとした。つまりイスラエルの民は「神に従っているモーセ」ではなく「人としてのモーセ」に従っていたので、新たな導き手(金の子牛)が必要だったのである。人々の熱心さは、本当に見つめなければならないものを見失わせてしまう。今、イエスの後に従う群衆も同じ状況にあったからこそ、「あなたがたは自分が何をしているのかを考えなさい、あなたがたは私とずっといるつもりなのかどうかを決めなさい」という思いを込めて、家族や自分の命を賭しても良いのかと問われている。その際、「憎む」という言葉が用いられているが、私たちが理解しているような意味であるなら、「自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています。」(1テモテ5:8)という呼びかけを破棄することになる。また、自分の命を憎むことは、自己を嫌悪し、自らを虫けらと見做し、自分をこの世のごみの山に投げ出せという呼びかけではないことも明らかである。何故なら私たちには自分を裁くようなどんな権利も与えられていないのであり、自らの意志で自分の命の判断をすることはできないからである。では「憎め」という命令をどのように解釈したらよいのだろうか。
 ここで要求されていることは、キリストと福音の要求が他の事柄に優先するということであり、それによって優先順位が変わることを求められているのである。換言すれば、憎むとはイエスを一層愛するということに他ならない。
20160904  イエスに従うことは代価を払う必要がある。その譬えが「農民が畑を荒らす動物を見張るための塔をつくる」時のことや「戦争に臨む際の王家の在り方」なのである。彼らは「これは私が払いうるものだろうか、あるいは進んで払うだけの値打があることだろうか。」と問うように、弟子になる場合にも同じことを問うべきなのである。キリスト者として歩みを始める前に、そして今日一日を始める前に、キリストに従うことを優先とする一日であるようにと心を整えて一日を始められるように祈っていきたい。

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