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2016年9月

2016年9月25日 (日)

ユーモア

 今年もイグ・ノーベル賞が発表された。1991年に創設され、「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」に与えられるもので、もちろんノーベル賞のパロディである。だが単なるパロディーではない。この受賞者の中には、ノーベル賞を受賞した物理学者もいることからもそれが分かる。授賞式はハーバード大学で行われ、旅費と滞在費は自己負担、授賞式の講演では聴衆から笑いをとることが要求されているという。そして今年も先日授賞式が行われたのだが、その中に日本人で関西の大学教授二人の研究も選ばれた。受賞の内容は「股のぞき効果」であった。
 股のぞきで見ると天地が逆さまになるが、直立してみる風景より平らで奥行きがないように見える(という)。そこで90人の人に「股のぞき」をしてもらい実験をしたら、遠くの目印が直立して見るより近くに感じる錯覚の効果が確認できたのだという。このことは逆さまに見える「プリズム眼鏡」を掛けて「股のぞき」をすると立った時と同じ景色なのに近くに感じる錯覚が起きていたことからも実証できたという。ちなみ「股のぞき」の実験に協力を依頼すると、男性は「ようそんなことやっとるな」という顔をするし、女性からは「恥ずかしいのでやりたくない」と言われたという。(朝日新聞9月23日朝刊記事参照)人類に貢献するかどうかは別として、真剣に「股のぞき」の実験を重ねておられる姿を想像するだけで、何かホッとするのは私だけではあるまい。
 洗礼者ヨハネが逮捕されたことを知り、民衆が集まって来た時、「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる。」(ヨハネ7:25~26)とイエスは言われた。恐らく物見遊山で集まっている人々に、「荒野にわざわざ葦でも見に来たのかい?あるいは贅沢な貴族なのかい?それなら宮殿にいるのでは」と親しみを込め、あるいは少々からかいの気持ちで語られたのではないか。そう言われたら民衆も苦笑するしかなかっただろう。そんなユーモアがイエスの周囲にはいつも漂っていたことを、視点を変えると福音書の随所に見られる。
 ユーモアは平和をもたらす最強の武器なのかもしれない。

2016年9月18日 (日)

目標を設定する

 都知事が替わって東京都中央卸売市場、通称「築地」の移転についての問題が次々と報道されるようになった。僅かな関係者しか知らなかった地下室と地下水、土で埋めることがもっとも安全とした結論を無視した経緯、そして建設費増額等々の問題、これまでは報道されなかったことが次々と明るみになっている。こうなると、更に隠された問題があるのではないかと疑心暗鬼になってしまう。この先、どのような結論が出されるのか素人には予測不能だが、何故このようなことになってしまったのかもきちんと検証してほしいと思う。
 報道を聞きながら個人的に思うことがある。新しい市場は築地の老朽化が激しくまた狭小であるがゆえに、これからの都民の食卓を守ろうと造られたはずである。しかし、いつの間にか目標が変わってしまったのではないかと思えるのである。つまり、「将来に亘って安心安全に食物を届けるために」ということが「見えないところはより低コストにし、2020年開催のオリンピックを成功させるために」となってしまったのではないか。本来の目標に戻り再検討されるのが望ましいが…。
 目標を設定することは決して悪いことではない。むしろそれが人を人として成長させる力にもなるし、時には生きがいにもなるだろう。しかし、目標はあくまでも目標であって、必要があれば設定を変更することもある。カルデヤのウルからハランに移り住んでいたアブラムは、75歳にして神に召され約束の地を目指して旅を始めた。定住の民から放浪の民へと彼の人生は大きく変わった。出エジプトの後カナンに定住していたイスラエルの民は周辺国の脅威に晒されていた。神は士師たちを立てて戦わせたが彼らの多くは軍人ではなく、神に召されることによって自身の目標を変えて国のために先頭に立った。パウロは熱心なファリサイ派であった。当時少数者であったキリスト者たちを迫害していたが、回心してキリストを宣教する者になった。彼の中の目標が「律法から福音へ」と替わったからである。これらの人々は確かに目標を変えざるを得なかった人々であるが、神のみ言葉に従うという一番大切なことを変えることはなかったことを忘れてはなるまい。
 変えて良い目標もあろうが、変わらぬ目標をこそ大切にして人生を送りたい。

2016年9月11日 (日)

助け手

 「聖壇のアジサイの花が縮(ちぢ)れてしまった」と妻が慌てていたのは、日曜日の礼拝前。この季節には珍しい白いアジサイ。緑の聖壇布とのバランスも良く、気持ちよく礼拝を迎えられるはずだったのに、縮れた花では飾れない。花屋さんに電話してみると、生き返らせる方法はあるという。「縮れた花をバケツなどの新しい水の中で根切し、縦に切れ込みをいれる。次に花と茎の全体が入るようなもの、例えば浴槽などに水を張り、茎と葉を入れる。通常はそれでよいが、できるだけ早くということなので、花の部分も濡れた新聞紙でくくるむと花びらも水を吸うので短い時間で生き返る。」と教えていただいた。言われた通りの処置をして三時間、礼拝には間に合わなかったが、見事に生き返ったアジサイを礼拝後に見ていただくことができた。植物の生命力の逞しさを思うと同時に、縮れて見栄えが悪いと諦めずに助けがあれば生き返るのである。ただし、枯れたものについてはその限りではないが。
 パラリンピックが始まった。開会式で聖火リレーのランナーが転倒、トーチを落とすというハプニングがあった。すぐさまスタッフがサポートに駆けつけ、次のランナーへと繫ぎ無事に点火された。大会は22競技で12日間続く。テレビ放送も行われるようなので、オリンピックとはまた違った興奮を与えられると期待しているが、同時に選手たちを紹介する映像をみていて、フト日曜日のアジサイのことを思い出した。障害のゆえに縮こまった生き方から、義手・義足・車いす、そして沢山の助けがあって生き返っている姿は、あのアジサイと同じであり、助けがあれば再び「生」と取り戻せるのだと。それだけではない、「独りでできる」と思い込んでいる私にも、実は見えない(気付かない)けれども沢山の助けがあって、今を生きることが出来ているのだと。
 神は「彼に合う助ける者を造ろう。」(創世記2:18)とイヴを送られた。今もそしてこれからも神は全ての人間に「助け手」を送ってくださっていることに感謝したい。そして神は、花は枯れたら捨てられてしまうけれども、私たち人間は死によって肉体は滅びても、イエスの贖いによって死からも生き返ることが出来るようにしてくださっている。なんという恵みであろうか!

2016年9月 4日 (日)

旅立つ前に

 (ルカ14:25-33,フィレモン1-25,申命記29:1-8)
 熱心な群衆に囲まれているイエスだが、彼らの熱心さは自分のためであった。その熱心さは群衆となることによって、今や熱狂的なものとなっていた。だから、イエスが十字架へと向かっていることに12人の弟子たちも含めて人々は全く気付いていない。そんな群衆を見たからこそイエスは彼らに問いかけようとされている、「私の弟子になるということはどういうことか分かるか」と。
 熱心さは大切なものを見失わせる。かつてモーセが十戒をもらうために山に入った時、しばらく戻ることがなかった。人々はモーセが死んだと思い込み、「金の子牛」を造り出し神として崇めようとした。つまりイスラエルの民は「神に従っているモーセ」ではなく「人としてのモーセ」に従っていたので、新たな導き手(金の子牛)が必要だったのである。人々の熱心さは、本当に見つめなければならないものを見失わせてしまう。今、イエスの後に従う群衆も同じ状況にあったからこそ、「あなたがたは自分が何をしているのかを考えなさい、あなたがたは私とずっといるつもりなのかどうかを決めなさい」という思いを込めて、家族や自分の命を賭しても良いのかと問われている。その際、「憎む」という言葉が用いられているが、私たちが理解しているような意味であるなら、「自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています。」(1テモテ5:8)という呼びかけを破棄することになる。また、自分の命を憎むことは、自己を嫌悪し、自らを虫けらと見做し、自分をこの世のごみの山に投げ出せという呼びかけではないことも明らかである。何故なら私たちには自分を裁くようなどんな権利も与えられていないのであり、自らの意志で自分の命の判断をすることはできないからである。では「憎め」という命令をどのように解釈したらよいのだろうか。
 ここで要求されていることは、キリストと福音の要求が他の事柄に優先するということであり、それによって優先順位が変わることを求められているのである。換言すれば、憎むとはイエスを一層愛するということに他ならない。
20160904  イエスに従うことは代価を払う必要がある。その譬えが「農民が畑を荒らす動物を見張るための塔をつくる」時のことや「戦争に臨む際の王家の在り方」なのである。彼らは「これは私が払いうるものだろうか、あるいは進んで払うだけの値打があることだろうか。」と問うように、弟子になる場合にも同じことを問うべきなのである。キリスト者として歩みを始める前に、そして今日一日を始める前に、キリストに従うことを優先とする一日であるようにと心を整えて一日を始められるように祈っていきたい。

迷走する

 岩手県に上陸した台風10号は、東北・北海道地方に大きな被害をもたらした。私が13年間住んでいた十勝地方が大きな被害に遭っているニュースを見ながら、親しい交わりをいただいた方々の顔が浮かぶが、個々の状況を伺うことも出来ない今はご無事を祈るだけである。
 この台風が発生したのは、かなり日本に近い所であった。その後、南下して再び北上するという動きや東北地方に上陸するというのも、気象庁が1951年に統計を取り出してから初めてだという。これまでにない予想外の動きに、「迷走台風」とも称された。予想外だったのはこの台風がもたらす被害も同じであった。多くの方が犠牲になった岩泉町の首長は「私はいつも自分の目で確かめてきた。その日も自分で足を運び大丈夫だと判断した直後に、一気に水嵩が増してきた」と、まるで自分には責任がないような釈明をしていたが、「予想外、想定外だからしかたない」という弁解は通じないと思う。東日本大地震で、福島原発事故で、熊本地震で、様々な災害の経験は「自然を相手に想定外は通じない」と学んできた筈だから。迷走したとはいえ大まかな予報は出されていたので、避難という備えを(行政も私たち一般人も)日頃から行っていれば、失われずに済んだ命もあったのではないか。
 聖書には旅する人々が多く登場する。カルデアのウル(現イラク)に住んでいたアブラハムは行く先も知らずに神の約束を信じて出かけた。エジプトの地に400年住んでいたイスラエルの民はモーセに導かれて故郷カナンに向かって出かけたが、シナイ半島の荒野を40年彷徨った。周囲の強国によって征服されたイスラエルは、バビロニア捕囚と呼ばれる辛酸をなめさせられた。それは250年という長い年月に亘る「旅する国」の歴史であった。パウロは当初イエスを信じる者を迫害するために旅をし、やがてイエスを信じる者を求めて旅するようになった。何よりイエスは、十字架(エルサレム)という目的はあったものの、公生涯の全てが「隣人になるための旅」であった。そして今、人生という旅を続ける私たち、時には迷走しているようにしか思えなくても、神は「導きを信じて歩み続けなさい」と聖書を通して語り続けてくださっている。生涯を終える時、迷走人生の至る所で神の導きを思い起こせたら幸いである。

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