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2016年8月 7日 (日)

労苦の先

 (ルカ12:13-21,コロサイ3:5-17,コヘレト2:18-26)
 相続に関する相談から日課が始まっている。民数記27:1~11や申命記21:15~17に財産に関する律法があるが、分配がスムーズにいかないことが多かったようである。日課の中でイエスに相談した人は弟であった。律法には相続はすべての子どもに権利があるものの、その分配比率については明確なものはないために不満をもってイエスの下にやって来たのである。
 創世記の家族にも同じ問題が起こったことが記されている。イサクの双子の息子たちは長子権を巡って争った。ヤコブの子どもたちも、ヨセフに与えられた特別な祝福のために兄たちの妬みを買った。(ただし、祝福を巡る争いがあっても、神が救いのためにその争いをも用いられたことを教えてはいるが。)人間の側の欲望、醜い言い争いはいつの時代にも存在し、数限りなくあることを私たちも知っている。
 イエスにその判定を求められたが、イエスは拒否された。誰それの欲が正しいなどと、結局のところ判定できる者はいないからであるし、判定したところで、それは救いにはつながらないからでもある。また物欲や貪欲は将来の安定のためであり、それは心配や恐れへと移行することになり、神の守りを忘れさせ、神そのものをないがしろにするからでもある。
 具体的に金持ちのたとえで、その愚かさが語られる。外典のトマス福音書の語録63に同じ話があり、最後に「聞く耳のある者は聞きなさい」とあるが、福音書の中に度々出てくるフレーズである。「聞き続けなさい」という意味であり、得心がいくまで、何度も何度も繰り返し熱心に、イエスに向かって「尋ね続ける、問い続ける」ことが求められている。つまり聞き続けなければ、そのことを忘れてしまうということであり、それほどに、物欲、貪欲は我々を惑わすということにほかならない。
20160807  貪欲が愚かであることを教えるために、愚かな農場主のたとえが語られる。彼は不正な利益や盗みをしたわけでもない。労働者を不正に扱ってもいない。誠実で慎重な人物と思われるが、何が彼の問題であろうか。彼は完全に自分のために生き、自分に語り、自分のために植え、自分自身に祝福を述べており、他者の必要には目を向けないからである。労苦の先に自らの栄光や命を得ようとしたからである。私たちの労苦の先にあるのは、世の栄光ではなく、神があたえてくださる平安と喜びこそ求めていきたい。

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