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2016年8月28日 (日)

主の前に生きる

 (ルカ14:7-14,ヘブライ13:1-8,エレミヤ9:22-23)
 1世紀のギリシャの伝記作家ブルタークは「小さな、実に些細な行為の中に、人の性質は非常に正確に反映される」と述べているが、イエスも人々の様子を良くご覧になっておられた。だから人々の苦しみや悲しみに気付き手を差し伸べられる。今日の日課は食卓での話だが、1節によるとイエスはファリサイ人の家で食卓の席についておられるので、客と主人の両者がどんなふるまいをしているか観察していたのであろう。その食卓の振る舞いから、「神の国」に通じるものを見出され、譬えを話しておられるのであろう。
 7~11節は社交や礼儀作法についての解釈のように思える。謙遜についての教えでありつつ、人間のエゴについても教えている。末席に着くことが主席へ上がることへの道となると聞くと、自分の地位を高めるために(一見謙遜のように見える)末席に着こうとするかもしれない。イエスはここで神の国について語られる。神の国においては「神と私」ということだけが問われるのであり、現実社会が相対的に評価して低いとしていても、神の前においては「高い・低い」という概念ではなく、「一人ひとりは大切な存在」ということが強く語られているのである。
 日課の後半は招く側、即ち主人についてである。ここでの主人役は、他の人々の上に立つ力を得、彼らに貸しを作る存在として描かれている。報いを期待する主人は報いることができない人々にはサービスや食事を提供しないだろうし、その結果、客たちは好意をお返しできるような人々で構成されることになる。しかし神の国では、財産もなく社会に食卓をもたない人々を食卓に招く。神は我々皆のホストなのである。私たちは実際、客として振る舞っており、神はホストとして文句も言わず、客の身分を限定せず報いも期待されない。そのように招くことが現代の教会にも求められているのであって、貧しい人や障碍者の必要に応えよと言っているのではないことは忘れてはならない。具体的に言えば、お返しとして私たちを招待することが出来ない人を歓迎することだと言われているのである。
20160828  あるいはまた誰かに食べ物を送ることを言っているのでもなく、むしろホストとゲストが共に食卓につくことが重要であると語られているのである。それは「パン裂き」、即ち「聖餐」に似ている。他者を受け入れ、自分と同等とみなし、結びつきを堅くし、共に生きることこそが神の前に生きている徴なのである。受け入れ、分かち合える群れとなることが出来るように祈っていこう。

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