« 主の前に生きる | トップページ | 迷走する »

2016年8月28日 (日)

心が痛む

 4年に一度のオリンピックが閉会した。開催中のいくつかのエピソードもニュースに取り上げられた。陸上女子5000m予選では、アメリカとニュージーランドの選手が接触し転倒したが、互いに助け合い最後まで完走した。体操男子個人で優勝した内村選手に「審判に好かれているのでは?」と質問が向けられたが、2位、3位の選手はこぞって公平なジャッジであったこと、内村選手がいかに素晴らしい選手であるかということ、共に戦えたことに誇りをもっていると彼への尊敬を語っていた。陸上50k競歩では、日本とカナダの選手が接触し、ゴール後に日本選手は失格とされたがコーチが上訴し、最終的には失格が取り下げられた。4位の選手は競歩では接触は良くあることとコメントし、閉会式では二人で写真を撮ったという。心踊らされ、そして心を温められた連日であった。
 16歳の少年が遺体となって河川敷で発見された。昨年の同様の事件を否が応でも思い出してしまう。詳細は明らかになっていないものの、私も子のある身、リンチを受ける時の彼の心中や殺された親御さんのことを思うと心が痛んで仕方ない。
 イエスの眼差しは、特に貧しい者や弱い者に注がれる。福音書には深く憐れんでくださるイエスの姿が度々記されているが、人々の姿に心を痛ませておられるということに他ならない。しかしその眼差しは、貧しい者や弱い者だけに注がれているのではない。イエスの服をくじ引きで分け合う兵士たちを十字架上で見ながら、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈られた時、兵士たちの姿に心を痛めておられたであろうし、恐らくイエスを十字架に付けた群衆やポンテオ・ピラト、遠巻きに見詰めていた律法学者たちに対してすら心を痛めておられただろう。なぜなら、イエスは全ての人のために世に来られたのであり、その救いにはイエスを敵視した人々も当然入っているはずだから。
 イエスが注いでくださる「深い憐れみ=心の痛み」は私にはない。私が心に感じる痛みは限られた人にしか向かわないからだし、人間には限界があるものだからだ。それでも「限界ある心の痛み」を全ての人が持つなら、神が望まれる平和の訪れがあるだろうし、日々心を躍らせて過ごせるのではなかろうか。

« 主の前に生きる | トップページ | 迷走する »

真間川のほとりで」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 主の前に生きる | トップページ | 迷走する »