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2016年8月14日 (日)

和解のために

 (ルカ12:49-53,ヘブライ12:1-13,エレミヤ23:23-29)
 「火を投ずるために来た」とイエスは言われた。イエスご自身はヨハネから水で洗礼を受けられたが、更に十字架上で流される血による洗礼を受けなければならなかった。その血による洗礼が成し遂げられると、聖霊の火による洗礼がこの世で全面的に開始されるということでもある。しかし、火とは危険なものであり、イエスが来たことは危険なことが起こるということになるのではないだろうか。
 聖書の言葉は慰めに満ちており、励ますために、慰めるために、立ち上がってほしいために、私たちは聖書の言葉を友人に贈る。しかし聖書の全ての言葉が私たちにとって慰めとなる訳ではない。だから私たちは心地よく響く言葉だけを選択しているとも言える。つまり「聖書の言葉に甘く向き合っている」という現実があるのではないか。
 ある人は、そのように甘い言葉だけを拾い、自分自身に、あるいは自分の罪に向き合わない姿を叱咤するために覚醒剤を使うようなものだという。興奮していつも自分だけは目覚めていると思い込む、自分で自分を酔わすだけでしかないからである。つまり、自分で自分を安心させるような信仰に陥っていないかどうかが問われているのであり、神の言葉でこそ安心を得ることが大事なのである。そのことについて「平和」を通して教えておられる。そのために大切なことが「神の家族」ということである。それによって地上の家族に分裂をもたらされるが、父なる神との関係を確立することで地上の親子関係が深まることを教えておられる。
20160814  家族を分裂させるような危険な存在としてのイエスの姿と最初に述べたが、ひとつの目的や価値へと向かうということは他のものへは背を向けるということになるからでもあって、命についての真理を知ることと真理に従う決断こそが、先ず求められているのである。しかし、ヘブライ2:2にあるように、キリストは私たちの歩みにいつも伴走してくださる。パラリンピックのマラソンでは、目の見えない人がいつも伴走するように、その道のりが決して平坦でなくともどのような時にも強く結びついてイエスは伴走し、ゴールへと導いてくださるのである。この道こそ真の家族、平和への道であることを私たちが信じるなら、そのゴールにたどり着くことができると約束してくださっている。主イエスの言葉によって立ち、神と和解をなしてこそ家族との間に真の平和を得るのである。

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