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2016年7月24日 (日)

主をお迎えする

 (ルカ10:38-42,コロサイ1:21-29,申命記18:1-14)
 日課はマルタの家にイエスを迎え入れた話である。その家は「主人がマルタ」、つまり女性の家に入るということであるが、女性の家にイエス(男性またはラビ)を招きいれるということは、当時にあってはとても革新的な出来事である。別の個所では、イエスが女性に教えておられるが、そのことも同様である。当時のラビたちは、女性が「ひざまずく」こと、つまり弟子になることを許しはしなかったからである。
 フェミニスト神学といわれる分野があるが、かいつまんで言えば女性解放の神学といえる。聖書において女性が不当に差別されていることを明らかとし、「父なる神」という表現は、男性の視点からのものでしかないと主張する。その結果、神を男性とすることを批判し、「女性が聖職者になれない」ということにも批判を向ける。しかし最近の研究では、聖書は女性に対して否定的なものばかりではないと修正する見解も現れている。その一つが今日の日課である。女性の家に入り、女性に教えておられるからである。
 この二人が住む家だが、物語はイエスとマルタを中心に展開していく。この出来事は極端に戯画化されてはならないだろう。例えば、マルタは洗い桶の洗剤の泡に目を釘付けにしており、マリアは沈痛な面持ちで部屋の椅子に腰かけており、イエスは流しに皿を山と積み上げることに霊的な警告を与えているというように。そうして彼女たちの行為を厳しく非難することで、マルタはもてなしをまったく止めてしまうかもしれないし、マリアは存分に聞き入るようにと命じることで彼女はその場に座ったきりになってしまうかもしれないからである。マリアは描写されているものの言葉を語らず行動も起こしていないし、マルタの行為は歓待を実践したもので、祝福を受けるに十分な行為であるというだけである。だからこそマリアに向けられた彼女の不平はもっともなものと思われる。
20160724  それに対してのイエスが伝えたいことは「必要な一つのことは食べ物ではなく神の言葉なのだ」と二人へのイエスの態度から、はっきり理解できる。もてなしに忙しくて言葉を聞かない女性に、イエスは「座って、聞き、学ぶように」と言われているのである。私たちが「今」何をすべきかは、日々の祈りにおいて主をお迎えする時に教えてくださる。その声が聞こえたら、「そうだ、Yes」と応えて従っていこう。

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