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2016年7月24日 (日)

歩き回る

 市ヶ谷で会議があった金曜日、昼過ぎに市川に戻って来くると、交差点にスマートフォン(以下スマホ)の画面に見入る若者数名。歩き始めても画面から目を離さない姿を見て直感したのは「アメリカで大人気のゲームが日本でも利用が始まったのでは」ということ。帰宅して早速ニュースを探すとその通りのことを伝えていた。犬の散歩に良く利用する公園でも、いつもは見かけない若者たちがベンチに座っているし、別の公園では小学生らしき子がおばあちゃんに連れられて公園内を右に左に行く姿、あれもきっと同じだった違いない。「これからしばらく至る所で同じような姿を見せられることになるのだなぁ」と思うと、複雑な気持ちである。
 「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」(マタイ9:35)イエスもイスラエル(特に北部)を歩き回られた。福音を宣べ伝えるためであったが、その際イエスは至る所で人々の姿をご覧になり、人々の苦悩にお触れになった。歩き回ることで見えてくるものがあり、歩き回らなければ隠れたものは見いだせないし、何よりも肌で感じることもなだろうから。歩き回ったからこそイエスは「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(同9:36)だからこそ人々はイエスが来られるのを待ち望み、所在が分かると大勢の人々が押し寄せたのである。その人々の姿こそがイエスの宣べ伝える「御国」であったと思える。
 先日亡くなられた大橋巨泉さんについて、朝日新聞の天声人語で紹介されていた。「『愛国心』はない、でも『愛民心』ならある、と述べた。軍国少年として信じていた正義が敗戦で崩れた経験が、国家の正しさを疑わせた。一時は参院議員になり、少数意見を尊重すべきだと主張した。」(7月21日記)そうだと頷ける言葉である。多民を愛することこそ私たちが求める心であり、そのためにはイエスのように壁を取り除いて歩き回らなければ生まれるものではない。
 スマホの画面を見ながら徘徊する若者たち、彼らも本当はゲームのキャラクターではなく、自分にとって大事な「何か」を探してくれたらと思う。

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