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2016年7月

2016年7月31日 (日)

願い、受け付け中

 (ルカ11:1-13,コロサイ2:6-15,創世記18:16-33)
 ルカには重要な要素として祈りがある。洗礼に於いて(3:21)、12人を選ぶ前に(6:12)、受難の初めての予言の前に(9:18)、変容に際して(9:28)など。祈りは訓練であり、単なる感情の発露としてではなく、教えられ経験し続けることなのである。
 日課は主の祈りである。讃美を内容とする二つの願いと祈る者たちへの配慮を求めた三つの願いがあり、共同体の祈りともいえる。
 第一の願いは神の国あるいは神の支配の到来の願いである。十戒の第一戒に通じるものであり、神を神とし、だから神が支配することを求めるのである。その上で自分自身を何にもまして神に委ねられるようにと願うのであるが、無責任になれというのでは決してない。第二の願いは御国の到来の願いであり、終末論的祈りともいえる。
 配慮を求めた願いの第一は、神の国の到来の際に天から送られる糧を求めつつ、同時に日々の糧の供給を願うものである。弟子たちを宣教に派遣される際(ルカ10:4~7)、余分なものは持たずに宣教の旅に送り出し、他人のもてなしに頼ることを命じられたが、それこそが神が養ってくださるということを弟子たちが体現することだからであった。
 第二は、自分に負い目(借金と訳すこともできる)のある人をみな赦すから、自分の罪を赦すようにと神に祈ることである。理由は、所有するという概念が人を裁いたり、自分で生きようとしてしまうということにつながるからである。
 祈りの最後の試みとは、終末の前の邪悪なものによって与えられる最後の打撃や苦しみを意味しているだろう。これは最初の願い、神の国あるいは神の支配の到来と?がっており、委ね切る心にはいつも試みが邪魔をすることを教えているのである。
20160731  祈りを教え、真夜中の友人のたとえと続く。真夜中でも友人のところに頼みに行って良いというのではない。圧力に屈して要求に応じる友人に神を比べているのでもない。我々に神の国を与えようと願う神は、どんなにより大きく応えてくださるかということにほかならない。
 「求めなさい、願いなさい」と神は言ってくださるのだから、心からの願いを神に届けたいと思う。その時に神は、聖霊を通して道を与えてるださるのだ。神様は今日も明日も明後日も、「願い、受け付け中」である。神を受け入れ安心して日々の歩みを続けよう。

はかなさと・・・

 埼玉県秩父市の山梨県境近くの山奥の入川渓谷に森林鉄道跡がある。切り出した木材を運ぶために作られたもので、明治時代の富国強兵と殖産興業政策に伴い敷かれた鉄道である。戦後は復旧のために木材が必要のため日本全国に建設され、多くの需要に応えてきたが、外国材の輸入が増加するに伴い採算が悪化し、また資源が枯渇してきたこともあり山から消えていった。現在も軌道跡が各地に残されているというが「入川軌道跡」もその一つで、現在は遊歩道として利用されている。その軌道跡を、施設の学童キャンプの最中に子どもたちと歩いてきた。
 入川軌道は1948年に敷かれ1970年、つまり46年前まで首都の復興のために木材を供出してきた。現在でもレールの跡が所々残されているものの、大半は土に埋もれ、崖っぷちにぶら下がったままのレールもある。かつての賑わいは想像するのも難しいほどだが、敗戦から立ち上がろうとする人々にここから搬出された木材が希望をもたらしたのだと思うと、少し胸が熱くなる。約700mの軌道跡を歩きながらそんなことを思う一方、ここを通って運ばれ重宝された木材も半世紀を過ぎた今、大半は朽ち果て廃棄されているのではなかろうかとも。意識せずとも「夏草や兵どもが夢の跡」という芭蕉の句が浮かぶ。
 神殿の見事さに驚く弟子たちにイエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」(ヨハネ2:2)人が造り上げる物は永遠ではなくやがて滅びる。朽ち果てないものこそ大切にすべきなのである。栄華を極めたソロモンの神殿も、戦後を支えた森林鉄道も今はない。軌道に僅かに顔を出すレールもやがて土に埋もれてしまうのだろう。はかない人間の営みを自然は時を掛けて全て包み込んでしまうが、その中には当時の人々の希望や喜びが今もきっと息吹いているに違いない。はかない私の人生だが、私が希望をもって生きたことを、そして涙をグッとこらえたことを、神はその御懐にいつまでも抱いてくださることを私は知っている。
 60年前に建てられた会堂の梁、あの軌道で運ばれてきたのかも!

2016年7月24日 (日)

主をお迎えする

 (ルカ10:38-42,コロサイ1:21-29,申命記18:1-14)
 日課はマルタの家にイエスを迎え入れた話である。その家は「主人がマルタ」、つまり女性の家に入るということであるが、女性の家にイエス(男性またはラビ)を招きいれるということは、当時にあってはとても革新的な出来事である。別の個所では、イエスが女性に教えておられるが、そのことも同様である。当時のラビたちは、女性が「ひざまずく」こと、つまり弟子になることを許しはしなかったからである。
 フェミニスト神学といわれる分野があるが、かいつまんで言えば女性解放の神学といえる。聖書において女性が不当に差別されていることを明らかとし、「父なる神」という表現は、男性の視点からのものでしかないと主張する。その結果、神を男性とすることを批判し、「女性が聖職者になれない」ということにも批判を向ける。しかし最近の研究では、聖書は女性に対して否定的なものばかりではないと修正する見解も現れている。その一つが今日の日課である。女性の家に入り、女性に教えておられるからである。
 この二人が住む家だが、物語はイエスとマルタを中心に展開していく。この出来事は極端に戯画化されてはならないだろう。例えば、マルタは洗い桶の洗剤の泡に目を釘付けにしており、マリアは沈痛な面持ちで部屋の椅子に腰かけており、イエスは流しに皿を山と積み上げることに霊的な警告を与えているというように。そうして彼女たちの行為を厳しく非難することで、マルタはもてなしをまったく止めてしまうかもしれないし、マリアは存分に聞き入るようにと命じることで彼女はその場に座ったきりになってしまうかもしれないからである。マリアは描写されているものの言葉を語らず行動も起こしていないし、マルタの行為は歓待を実践したもので、祝福を受けるに十分な行為であるというだけである。だからこそマリアに向けられた彼女の不平はもっともなものと思われる。
20160724  それに対してのイエスが伝えたいことは「必要な一つのことは食べ物ではなく神の言葉なのだ」と二人へのイエスの態度から、はっきり理解できる。もてなしに忙しくて言葉を聞かない女性に、イエスは「座って、聞き、学ぶように」と言われているのである。私たちが「今」何をすべきかは、日々の祈りにおいて主をお迎えする時に教えてくださる。その声が聞こえたら、「そうだ、Yes」と応えて従っていこう。

歩き回る

 市ヶ谷で会議があった金曜日、昼過ぎに市川に戻って来くると、交差点にスマートフォン(以下スマホ)の画面に見入る若者数名。歩き始めても画面から目を離さない姿を見て直感したのは「アメリカで大人気のゲームが日本でも利用が始まったのでは」ということ。帰宅して早速ニュースを探すとその通りのことを伝えていた。犬の散歩に良く利用する公園でも、いつもは見かけない若者たちがベンチに座っているし、別の公園では小学生らしき子がおばあちゃんに連れられて公園内を右に左に行く姿、あれもきっと同じだった違いない。「これからしばらく至る所で同じような姿を見せられることになるのだなぁ」と思うと、複雑な気持ちである。
 「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」(マタイ9:35)イエスもイスラエル(特に北部)を歩き回られた。福音を宣べ伝えるためであったが、その際イエスは至る所で人々の姿をご覧になり、人々の苦悩にお触れになった。歩き回ることで見えてくるものがあり、歩き回らなければ隠れたものは見いだせないし、何よりも肌で感じることもなだろうから。歩き回ったからこそイエスは「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(同9:36)だからこそ人々はイエスが来られるのを待ち望み、所在が分かると大勢の人々が押し寄せたのである。その人々の姿こそがイエスの宣べ伝える「御国」であったと思える。
 先日亡くなられた大橋巨泉さんについて、朝日新聞の天声人語で紹介されていた。「『愛国心』はない、でも『愛民心』ならある、と述べた。軍国少年として信じていた正義が敗戦で崩れた経験が、国家の正しさを疑わせた。一時は参院議員になり、少数意見を尊重すべきだと主張した。」(7月21日記)そうだと頷ける言葉である。多民を愛することこそ私たちが求める心であり、そのためにはイエスのように壁を取り除いて歩き回らなければ生まれるものではない。
 スマホの画面を見ながら徘徊する若者たち、彼らも本当はゲームのキャラクターではなく、自分にとって大事な「何か」を探してくれたらと思う。

2016年7月17日 (日)

奪い合う

 先日、英国のロックバンド、ビートルズ来日50年を記念して、いろいろな報道がなされていた。その中でビートルズと親交のあった音楽評論家湯川れい子さんのインタビューがあった。「Love(愛)&peace(平和)を彼らは大切にしてきた。しかし今は『奪い合い(奪い取り)の世界』で、彼らの願いの世界になっていない」と語っておられたが、確かにそうだと同感できる。領土の奪い合いの先に戦争が起こる。所有物を奪い合うところに憎しみや争いが起こり、弱者の存在や権利を奪い取ることで抑圧・虐待が発生する。
 大きな事柄だけでなく、日常の中でも奪い合うことや奪い取ろうとすることから悩みや苦しみ、不満や不安が日々生じている。保育園児が「○○ちゃんがいきなり取った」とケンカになる程度なら可愛いものだが、遺産の奪い合いは遺族同士の憎しみ合いに発展し、敷地などの権利の奪い合いは隣人・住民の問題に発展していく。奪い合うことで多くの人が辛い人生を送らなければならなくなり、そして奪い合うことで起こった争いで数えきれない程の人間の人生(命)が失われてきたのは事実である。
 「兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。」(ヨハネ19:23)兵士たちはイエスの服を奪い取ったが、人としての尊厳とこれまでの歩みを奪い取ることでもあった。十字架が人としての存在を否定する行為だからである。服を奪い合ったが、結果的にそれはイエスの全てを奪い取ることになったのである。彼らだけが責められているのではないだろう、人は全て「奪い合う」という存在なのだろうから。神様は人を「すべての海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」(創世記1:26)と創られた。奪い取るためではなく治めるために、奪い合うためではなく分かち合うために、人をあらゆるものの最後に神様は創られたのだと思えてならないが・・・。
 「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(詩編133:1)互いを慈しみ共存することの喜びがある。それは分かち合う心があって生まれるものだと思う。奪い合う世界よりも、分かち合いによって生まれる平和を願おう。

2016年7月10日 (日)

検証する

 EUから離脱を決めたイギリスで、先週、一つの報告書が提出された。2003年のイラク戦争参戦に関する報告書である。「イラクを独裁支配していたフセイン政権は大量破壊兵器の開発し保有している」という情報を大義に、アメリカのブッシュ大統領が侵攻することを決断した。イギリスの当時のブレア首相も「武装解除の平和的な方策を尽くす前に侵攻する必要がある」と判断し、アメリカに追随した。報告書は、「侵攻が認められるとした判断の根拠となるものが不明確であり、政府内で十分に照会することもなく、決定のプロセスが誤りであった」としている。また「侵攻は早計で最終手段ではなかった」つまり間違った判断だったと認定したのである。この報告書には、当時の誤った判断が、今のアルカイダやシリア情勢の泥沼化にもつながっていることも指摘している。検証することの大切さを教えてくれると同時に、検証をしっかりと受け止めることがあってこそ未来が良きものになるのではないかと思えてならない。
 教会で行われる学問は神学である。聖書神学、実践神学、歴史神学など多岐に亙る。それらは更に教義学、倫理学、説教学、典礼学、説教学等々細かく分類され、それぞれに専門とする神学者がいる。しかし、全ての神学は「聖書」に記されたことを検証することなくしては成立しない。例えば日曜日に行われる礼拝は、順序や言葉が聖書のどの箇所を根拠とするのかが検証されて始めて成立するものである。更にまた個人の信仰の歩みもそうであるし、殊に教職者である牧師の言葉や行動の根拠も聖書からの検証によってのみ善しとされなければならない。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(中略) すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。」(1テサロニケ5:16~22)と記されていることが、私たちが祈りにおいて神のみ旨を検証することの大切さを教えている、と同時にその際に絶えず聖霊の助けがあるということを教えてくれているのである。祈りつつ神のみ旨を聞いて(検証して)いきたい。
 フト思う、「検証すること」私たちの国にそれを行う勇気があればと・・・。

2016年7月 3日 (日)

危うきもの

 イギリスで国民投票が行われた。27か国で形成されていたEU(欧州連合)に留まるか、それとも離脱するかを問う投票である。結果は既にご存知であろうが、「離脱する」という世界が驚くようなものになった。EUはヨーロッパ全土を巻き込んだ二度の大戦の経験から、平和のために設立されたEC(欧州共同体)から発展し、「外交・安全保障政策の共通化と通貨統合の実現を目的とする統合体」(デジタル大辞泉より)である。具体的には各々の国は主権を保持しつつ税関が廃止され、人や物の自由な移動が可能となり、2012年には欧州各国の平和に貢献したとしてノーベル平和賞も受賞した。完全ではないとしても「平和を実現する人々は、幸い」(マタイ5:9)という在り方を具現化するものとして、争いが続くアジアの一人としては羨ましい存在と映る。その一方、不満を持つ人々、特に老年層に多く、今回の結果になったという。その後のニュースを見ていると、離脱によって何が起こるのかが明示されず、一種のプロパガンダ(政治的宣伝)により群集心理が働き、離脱に一票を投じた(投じてしまった)人も多くいたことが報道されている。
 「祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。(略)群衆はまた叫んだ。『十字架につけろ。』ピラトは言った。『いったいどんな悪事を働いたというのか。』群衆はますます激しく、『十字架につけろ』と叫び立てた。」(マルコ15:11~14) イエスを十字架に付けてしまったのは、ポンテオ・ピラトや指導者たちだけではなく、群衆も個々の判断をせずに加担した。群衆が動かされたのは指導者たちによる扇動、即ちプロパガンダといえるものだが、同時に人の心の危うさを知らされる出来事であった。だからこそ神は十字架の出来事を通して、「扇動するような言葉が渦巻くような時にもイエスを思い起こし、揺るがぬ心で神が教えてくださる正しき道を歩み続けなさい」と教えてくださったのではなかろうか。もちろん忘れてならないことは、揺るがぬ心になれるよう聖霊を送ってくださっているということを。
 日本で国民投票が行われるのは憲法の改正に関する時だが、そうなった時にも「平和を実現する」ために働きたいと思う。勿論、その時を迎えないで済むことを願うのはいうまでもないが。

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