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2016年6月 5日 (日)

愛着障害

 長女が生まれて「親」になった私は、抱いて育てることを心掛けていた。泣き出したら先ず抱っこし、あやしながら「お腹が空いたのか、オシメが濡れたのか、それとも眠たいのか」と物言わぬ赤ん坊に尋ねながら、初めての親業を楽しませてもらっていた。その頃、近くに叔父が住んでいて時折訪ねてくれていたが、泣けば抱くという私を見て、「赤ん坊は少し泣かせた方が良い、泣くことで体が丈夫になるのだから」といつも忠告してくれていた…のに、私は「そう」と頷きつつ、叔父が帰ると抱いて育てることに専念するのだった。私の「抱いて育てる」という思いはその後も変わらず、四人の子どもたちの乳児期を同様に過ごしてきた。それが良かったのか悪かったのかは私には判断つかなかったけれども、「泣いている時に誰かがそばにいてくれるのを実感できたら、きっと安心する筈だ」という信念だけは変わらなかった。
 乳幼児期の子どもは、得るはずだった愛情を十分に得られない時、心に障害を負うというが、これは現代では愛着障害と称されている。「乳幼児は恐怖や疲れや親と距離が離れたときなどに、親に近づくことにより安全感を得ようとします。乳幼児に愛着のシステムが働いていると考えた精神科医ボウルビーは、養育者の側はこのような乳幼児の愛着行動に対して、感受性をもってなだめる機能を発揮することが適応的であり、乳幼児はこのような感受性のある養育者との安全な愛着関係を繰り返し体験することにより、他者に対する安全感・安心感を獲得していくと考えました。」(HP:ハートクリニック参照)親から受ける様々な行為、「遺棄、虐待、暴力」といった目に見える行為だけでなく、「かまってもらえない、否定される、他の兄弟と差別される、親が期待を押し付ける」などによっても愛情を得そこない、後の人生に少なからず影響を及ぼす可能性があるのだという。
 聖書にも「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(創世2:18)と記されている。人は世の創めから誰かの愛情が必要な者として造られ、幼児期に先ずそれを得ることで安心して生きていけるのが私たちなのだと思う。更に、世に生き続ける限り神の愛を覚えることで、私たちは今日を元気に過ごせるのだろう。
 「抱いて育てる」という私の信念は、決して間違いではなかったようだ。

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