« 導きを信じて | トップページ | 見続ける »

2016年5月15日 (日)

守護者を知る

 (ヨハネ16:4b-11,使徒2:1-21,創世記11:1-9)
 ペンテコステ、五旬節祭ともいう。もともとはユダヤ教の七週の祭りであり、春の小麦の収穫祭であり、この日に弟子たちに聖霊が下ったことを覚える。
 ヨハネ福音書には聖霊の記述が多い。迫害が激しくなる中、再臨のイエスの到来が遅れており、不安や恐れの中で聖霊の約束を思い起こし、強調することで共同体の不安を取り除こうとしたからとも考えられる。
 しかし、そのような不安があったことを窺い知ることができるのが、今日の日課でもある。今日の日課の前には、会堂から追放され殺されると預言されている。しかも迫害している者自身が「神に奉仕しているのだ」と主張する時代が来ると預言されている。まさにヨハネ共同体が置かれている状況が描かれていると受け取ることができる。七節には「去っていくのはあなた方のためになる。去っていかなければ弁護者はこない。」とあるが、イエスが去っている共同体だけれども、それは弁護者が来ている徴なのだと不安を取り除いたのである。
 さて、降ってくる聖霊は、「罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかにする」という。では罪とは何か。迫害する者がいる、殺そうとするものがいる、彼らは神の奉仕者と自認しているが、それこそ神を信じないことであり、罪そのものだというのである。ヨハネの共同体は当時の社会において否定されていたけれども、否定する者こそ罪の状態にあるということにほかならない。義とは何か。ヨハネの共同体はイエスが見えない時代に生きている。しかし、不安になるその状況こそ「義」であり、肯定されることであり、受け入れるべきことなのだと教えておられる。裁きとは何か。迫害は人に「裁かれている」と思わせるが、真の裁きは神がなさることであり、この世の裁きにも心を折られずに神に委ねることが強調されている。
 これらのことを現代に置き換えると、罪は私たちのあるがままを知らせ、そのような私たちをも神は見捨てないことを教える。つまり、希望を与えるのである。義を知ることでどのような状況にあっても、神が働いてくださることを知り、平安が与えられる。裁きを知ることは、委ねることができる方を知ることであり、自由とされるということにほかならない。
20160515_2  ヨハネの共同体は聖霊、弁護者を知ることで、迫害の中にあっても「生きる力」を与えられた。私たちも同じであり、私たちが生きるために、希望を平安を自由を知り生きるようにと言われているのである。そこにおいて私たちは生きる力を得るのである。

« 導きを信じて | トップページ | 見続ける »

説教要旨」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 導きを信じて | トップページ | 見続ける »