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2016年5月15日 (日)

見続ける

 熊本では今も地震が続いている。先週は神学生の息子二人も他の神学生たちとボランティアのために熊本に出かけた。支えるために出かけたのだろうけど、彼らがボランティア活動をして与えることができた手助けよりも、もっと多くの恵みに気付かされて帰ってきたことだろう。私というと現地に向かってボランティアをすることはできないけれども、現地から発信される状況に心を開き続け、市川の地で出来ることを考え行っていきたいと思っている。ところでルーテル教会は救援対策本部を「できたしこ(熊本弁・できただけ)」と名付け支援活動を続けており、その様子はフェイスブックを通して知ることができる。そこから情報を得るというだけでなく、被災地の人々のことを見続けることで、忘れないことや繋がり続けるという支援になると思えてならない。地震は続いているものの、被災地の支援の在り方も変化している。時宜に適った支援を行い続けることで、被災者の方々が「何処かで誰かが自分たちのために祈ってくれている」と感じて元気を取り戻してくだされば嬉しいことである。
 9日の朝日新聞朝刊「折々のことば(鷲田清一)」に次のような文が掲載されていた。「人には、自分がだれかから見られてということを意識することによってはじめて、自分の行動をなしうるというところがある。(浜田寿美男・山口俊郎)幼児は、親がいつも決まった場所から自分のことを見ているのを確かめてようやく、安心して遊びに没頭することができる。誰かが背後でじっと見ていてくれるから、逆にひとり、目の前のことに全力で取り組めるというのは、もちろん大人たちにも等しく言えること。発達心理学者の共著「子どもの生活世界のはじまり」から。」被災者の方々の心が元気を取り戻せるのは、近くから遠くから自分たちの苦しみを受け止めてくれる人がいるとかんじることなのではないかと思う。
 福音書の記者たちは、人々のために独りで祈っておられるイエスの姿を度々描く。弟子たちはそれを見た訳ではないが、何も知らずに従っていた時も、天に上られてしまわれた後も、主ならずっと見続けていてくださるに違いないと確信していたからそう描いたのだろう。ペンテコステの今日、主が私をも見続け祈っていてくださることを聖霊の助けをいただいて思い起こしたい。

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