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2016年3月27日 (日)

儚(はかな)さと復活の力

 1枚のガラスの上に砂で次々に絵を描いていく「サンドアートパフォーマンス」と呼ばれるものがある。ガラス板の上の砂に絵を描き、それを下からライトで照らしライブ中継して観客に見せる。砂絵は次々に場面が変わっていき、物語となって展開していく。しかし砂で描かれた絵であるので最後は全て消されてしまう。「美しいが、儚さ」という処にサンドアート(パフォーマンス)の魅力があるのかもしれない。
 朝の礼拝に来る子どもたちに、H兄がバルーン(風船)でいろんな物(動物や遊び道具)を作ってくださっている。子どもたちもまた、それが楽しみで教会にきているのかもしれない。細長い風船に空気が吹き入れられ、捻られ伸ばされただのゴムが、見事な手さばきで生き物の姿に変わっていく。子どもたちの目も輝き、手に渡された時の嬉しそうな顔。お見事!!しかしバルーンの命は短命である。1年半前にH兄が講習会を開いてくださったが、試しに作られたたくさんのバルーンは、会が終わると一気に破裂させて片付けられてしまった。出来上がりしか目にしない私には、潔く割られてしまうバルーンに、「儚さ」を感じたものだったが・・・。
 桜の季節、年度替わりの時期に重なることもあって、日本中が花見で賑わう。「パッと咲いてパッと散る」、そんな桜の花の「儚さ」に、我が身を重ねて宴を催すのかもしれない。もちろん花見の宴に「儚さ」を感じている暇はないが、心の奥底で人は知っているのである「命には限りがある」ということを。
 「わたしの生涯は移ろう影、草のように枯れていく。」(詩篇102:12)「生きているものは、少なくとも知っている、自分はやがて死ぬということを。」(コヘレト5:5)旧約の詩人も賢者も限られた命と儚さを知っているのである。その結果、「人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない。」(コヘレト6:12)と言うしかなかったのである。だがキリストが来られ死から復活されることによって、「死は勝利にのみこまれた」(1コリント15:54)と知らされたのである。命は?いのではなく、地上での年月には限りがあるというだけのことで、肉体が滅びたら「神が用意してくださった場所」(ヨハネ14:2)に住める約束を、復活の出来事が告げているのだ。
 今日は復活日。イースターおめでとう!!

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