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2016年2月 7日 (日)

縁起

 2月3日は節分。各地の寺社で有名人が盛大に豆まきをしている様子がニュースで流れていた。近所のお寺でも盛大に節分のお祝いがなされたようで、出かけた人の声が聞こえてくる「縁起物だからネ」と。良いことが起こるような徴であり飾り物のことを「縁起物」という。そのことから「縁起」とは良いことのように思うが、この意味は「いっさいの物事の始まり」であり、吉凶の前兆の意味である。しかし、この解釈も元々の意味とは違うのだという。
 「仏教の基本思想でいう縁起とは、私が先に存在しているのではなく、無量無数の因縁が私となっている、無量無数の因縁によって私が成り立っているという意味であるから、福も内、鬼も内である。福と鬼が私となっているという意味である。」(大谷大学HPより)つまり、良いことという意味でもないし、単なる始まりないし吉凶の始まりでもないということである。だから、節分の豆まきでもらったものは、縁起物ではあるけれども良い物だけが入っているのではなく、悪しき物も一緒に入っているのだと理解しておかなければならないということだろう。本質を見失った解釈に対して、「いつの間にか、縁起が吉凶の前兆を意味する、自分の都合を願う言葉になっいているとすれば、仏教の大切な教えすらも、自分に都合よく理解しようとする人間の本質が見えてくる。」と先のHPは結ばれていた。そのことは、キリスト教でも起こることで、神に対しても人間の都合に合わせようとすることがあり、聖書はそれを「罪」と呼ぶのである。
 「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き出されるマルコ福音書。キリストの出来事には、人の目に適うこと(癒しや奇蹟等)もあれば、目を背けたいこと(裁きや厳しさ等)がある。何よりも十字架の出来事は、誰もが望まないことであったが、そこにこそ真の救いがあり、「人間の本質」とは全く異なる「神の本質」があることが告げられているのである。その意味でマルコ福音書の1章1節は「神の子・・・福音の縁起。」と記して良いだろう。そしてキリストとの出会いが、私たち一人ひとりの「縁起」であり、この「縁起」をこそ大事にしたい。

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