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2016年2月 7日 (日)

素晴らしいこと

 (ルカ9:28-36,2コリント4:1-6,申命記34:1-12)
 水曜日の聖書の学びではヨブ記を読み進めている。ヨブを襲った突然の苦難に対し、三人の友人がやってきて、ヨブの苦難は何か罪を犯したからに違いないと責め立てる。ヨブは自分には罪など身に覚えがないと反論する。互いに自分の正しさを主張することによってかえって神の思いから離れてしまう。神の出来事についてはあるがままに受け入れることのみが求められている。
 「この話をしてから」と日課は始まるが、十字架と復活の出来事についての話である。それは弟子たちの思いとは違うから、その言葉は受け入れがたいものであっただろう。そこでイエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて山に行く。この三人は特別な位置を占めており、三人だけ連れて行かれることは何か特別なことがあるということでもあった。
 高い山で三人が見たのは、モーセとエリヤが現れイエスと話をしている姿であった。モーセは神の民に律法を伝えた預言者であり、エリヤは9世紀以後北イスラエル王国の預言者の中で代表的な人であり、二人は神の言葉を取り次いだ代表者と見ることができる。それによってイエスの言葉と行為が神の思いの正しい実現であり、十字架の死は神の正しい計画であることを教えている。またその時に顔の様子が変わり、服が光り輝いたとあるが、モーセが律法を携えて帰って来た時に顔が光輝いていたことと同じだったということである。
 目の前に起こった出来事に圧倒されたペトロは、彼にとって素晴らしいと思える提案をする「三人ために幕屋を建てる」と。幕屋は神が民と共に住むために造られるものであって、イエスや預言者のためではない。ましてイエスがこの世に来られてからはイエスご自身が幕屋であって(ヨハネ2:21)、必要ないのである。今、ペトロがなすべきことは、イエスの言葉に耳を傾けること、イエスこそ救い主であることを受け入れることにほかならない。
20160207  輝く姿を想像することは楽しいことである。それとは反対に十字架につけられたイエスを見詰めるのは辛いことでもある。しかし目に見えることに心を寄せてしまうと、何が大切なことなのかを見失ってしまう。神様は「これに聞け」と言われるのだから、イエス様の言葉を聞き、従うことを大切にできる私たちになりたいものである。その姿を神は素晴らしいこととほめてくださるに違いない。

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