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2016年2月21日 (日)

心で見る

 (ルカ18:31-43,フィリピ3:17-4:1,エレミヤ26:7-19)
 日課に「預言者が書いたこと」とあるが、この時に特に思い起こされるのはイザヤ53章、主が屠り場に引かれる小羊のように引き連れられて行くことを預言した言葉であろう。またダビデ王の詩とされる詩篇22編では、十字架上で見捨てられるイエスの言葉を預言しており、これらのことが「実現する」と三度目の予言の最初に語られる。この言葉は神的受動態と呼ばれ、背後に神の働きがあることを意味している。神の名をみだりに唱えてはならないという律法があるから、そのためにこのような表現をする。「預言者の言葉は成就することになっている、それが神の意志だから。」と意訳することができる。つまり受難の出来事は偶然ではない。十字架を見上げることは、まさに神的受動態でしか言い表せない出来事を、受け入れるということにほかならないのだ。
 しかしそのことは、イエスに従う弟子たちにもまだ明らかにされていない。そのため弟子たちは預言者たちを通して人の子について書かれたことのすべてのことが、イエスに於いて実現すると理解できなかったのである。それは神によって隠され、復活後に二人の弟子が語り合っていたときに現れ、彼らの心が開かれるとイエスであることが分かったという出来事に繋がっていく。予言された時には理解されないというのが神のご意志なのであった。
 預言の後、エリコで盲人の癒しが起こる。群衆のざわめきを聞いて、なんの騒ぎかと尋ねる彼に、誰かが「ナザレのイエスが通り過ぎる」と教える。すると彼は「ダビデの子イエス」と叫ぶ。なぜそのように叫ぶことができたか。通り過ぎる人々の声に耳を傾け、イエスという方の噂を聞き、「ダビデの子」から救い主が現われると約束されていたことに重ねたからであろう。
 人々には盲人のことは眼中になく、これからイエスがなさることを見ようと期待していたので、彼を黙らせようとする。20160221 彼は群衆に叱られても止めなかった。この機会を逃したら二度とダビデの子に会えないと本能的に察し叫び続けた。イエスのもとに来た彼に、イエスは彼の思いを確かめるが、見えるようになると願ったのは聞くまでもなく明白であった。イエスが聞いたのは、彼のためではなく群衆のためであり、人々の身勝手な態度に気づかせたのだろう。盲人は見えるようになっただけでなくイエスを見上げた。だから「あなたの信仰があなたを救った。」と信仰による救いを告げてくださったのである。

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