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2016年2月14日 (日)

誘惑に克つ

 (ルカ4:1-13,ローマ10:8b-13,申命記26:5-11)
 荒野の誘惑、悪魔の誘惑と呼ばれている箇所が日課である。悪魔の存在について私たちはどのように考えているだろうか。誘惑する存在だが、決して人が嫌うような存在ではない。では、悪魔は何故存在するのだろうか。旧約聖書のヨブ記では、神が悪魔にヨブを委ねたと記されている。それによってヨブは自分のあるがままの姿を知らされたが、つまり悪魔は私たちにありのままを見せることによって、私たちは逆に神と真に繋がっていくのである。
 さて、荒野にいたのは40日であったが、イスラエルの民がモーセに導かれ荒野に居たのが40年。モーセが十戒をもらうためにホレブ山に過ごしたのは40日。預言者エリヤがアハブ王から逃れて神の山にいたのも40日であった。
 荒野の誘惑はマタイにも記されているが違いもある。①マタイは断食したとあるが、ルカは食事をとらなかったと表現している。自分の意志でなく巻き込まれてたということを表しているのかもしれない。この世の中では、愛すること、平和であり、健康であることが望ましいく、私たちはそれを求めている。しかしそれに対して強く反対するもの(存在)があるというのも私たちは経験するし、聖書もまたそのことを暗示している。だからイエスは自らの意志で断食したのではなく食べなかった(食べられなかった)という表現になる。
 ②ルカは一瞬にして世界を見せる。つまりあらゆる時の支配を意味しており、マタイでは世界の全てという空間的に支配することを意味している。
 ③ルカは神殿での出来事を最後に持ってくることで、エルサレムが中心であり、旅の目的であることを強調する。明らかにそこが勝利と試練の地であることを指し示そうとしている。
20160214  悪魔の誘惑に対して、イエスは聖書の言葉で応える。一方、悪魔も聖書の言葉で誘惑しているのだが不適切な使用であるとイエスは指摘しておられる。私たちがここに来て祈り学ぶのも、み言葉を正しく受け止めるために必要なのである。そして誘惑は強さを試すものであって、弱さを試すものではないことも覚えたい。つまり、自分の力の範囲内のことで誘惑されるであり、自分の力以上の誘惑はないからである。その誘惑に対して聖書の言葉は克服する力を私たちにくれるのである。かつて荒野に罪を負わせて雄山羊を荒野の奥へ追いやった。 (レビ16:20~22)今、イエスが私たちの罪を背負って荒野にいてくださるのである。

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