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2016年2月

2016年2月28日 (日)

休眠打破

 「今年の東京の桜の開花は3月25日頃になる」と気象協会の予報が出された。1月半ば頃から少し寒くなったとはいえ、暖冬傾向であったこの冬。素人の私は、今年の桜は3月上旬、いや2月末には咲いてしまうのではないかと思ったのだが、ほぼ例年通りの開花日になるらしい、自然とは不思議なものだ。
 暖冬でも、いや暖冬だと桜の開花に必要なある自然の働きがなされずに、たとえ春先が暖かくても開花は遅れるのだという。「桜は夏に翌春咲く花芽を形成する。いったん休眠に入った花芽が、冬に一定期間低温にさらされ休眠から目覚める。これを休眠打破といい、その後の気温上昇と共に花芽は成長して開花に至る。」(知恵蔵2015のHPより)だから今年のように暖冬だと、花芽をトントン叩いて起こしてくれる休眠打破がなく、暖かくなっても「咲いて良いのかなぁ~~」と桜の花芽が悩んで遅くなるということらしい。自然とは不思議ではなく、実に素直なものだった。
 休眠打破は桜だけに起こるのではない。例えば「土中にあって芽の出ない種子が特定の条件の中で特定の温度に遭遇すると発芽する」のも休眠打破といい、様々な種子や球根で起こる現象である。この休眠打破の特性は現在では様々な植物で利用されているのだという。自然のなりわいを変えることが出来ない人間には、自然の特性を利用させていただくという謙虚な姿勢をもって共生することがベストということか。
 「ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。」 (使徒9:3~5)この後、パウロは目にうろこのようなものがついて見えなくなり、三日後にアナニアに会い、うろこのようなものは落ちるのだが、パウロの出来事はまさに休眠打破と言える、彼の中に眠っていた「キリストを信じる心」を、主ご自身が起こしてくださったのだから。預言者エレミヤの場合は「母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた」(エレミヤ1:5) とはっきりと告げられ、元々あったものを神が起こされたがゆえに預言者として立っていったのだと記されている。私たちの信仰が休眠しているなら、聖霊に打破していただけるように祈っていきたい。

2016年2月21日 (日)

備える

 クリスマスは教会の聖壇にツリーを飾る。市川教会では私が赴任する前から生のモミの木を使ってきた。クリスマスの期間を過ぎるとモミの木は教会の庭の片隅に置かれ冬を待つ。何事もなく次のクリスマスを迎えられれば良いのだが、風にあおられて年に何度か倒れてしまう。その度に鉢に埋め直し、クリスマスを待つということの繰り返しであったが、今年は庭に戻して早々に倒れてしまった。直ぐに埋め戻したのだが、根が浅かったのか少しの風で倒れるようになってしまった。「これは深く埋めなければダメだ」と鉢の中の土を出し始めたら・・・出てくる出てくる蝉の幼虫が!!丸々と太った幼虫、小さくて色も黄色ではなく灰色の幼虫も。兎に角眠りを妨げられた幼虫を戻してあげなければと、慌てて木の根を入れ幼虫と共に土を押し込んだ。
 モミが倒れるほどの風の通り道の場所に置いていた精で、蝉が棲家になりそうな木と判断して卵を産み付けていったのかもしれない。卵から孵化した幼虫は直ぐに地面に潜り、木の根から樹液を吸って成長していき、6年ほどたって地面からはい出てて「蝉」として一週間の地上での日々を過ごして死んでいく。地上の一週間をとらえて「短い一生」と言うこともできるが、地面の下での約6年も蝉の一生。そう考えると「蝉の一生は昆虫の中では一番長い」となるのではないか。
 「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」(エレミヤ1:5)神様は私たちが気付かない前から、私たちを知り備えてくださっている。知らずにいようと忘れていようと、更には地上に存在しない時からも神は私たちに目を留め備えの時にしてくださったのだと、土の中でひたすら地上での日々を待つ蝉の幼虫が教えてくれている。
 モミの木の幼虫たちが成虫になるまであと4~5年だろう。それまでは枯らさないように、倒れないように気を付けてやらなければと思う。そして会堂で讃美歌を聞いて育った蝉の幼虫は、もしかしたら「ジーンジーン、ミーンミーン」ではなく、「メリークリスマス」と鳴いてくれる…ことはないか!

心で見る

 (ルカ18:31-43,フィリピ3:17-4:1,エレミヤ26:7-19)
 日課に「預言者が書いたこと」とあるが、この時に特に思い起こされるのはイザヤ53章、主が屠り場に引かれる小羊のように引き連れられて行くことを預言した言葉であろう。またダビデ王の詩とされる詩篇22編では、十字架上で見捨てられるイエスの言葉を預言しており、これらのことが「実現する」と三度目の予言の最初に語られる。この言葉は神的受動態と呼ばれ、背後に神の働きがあることを意味している。神の名をみだりに唱えてはならないという律法があるから、そのためにこのような表現をする。「預言者の言葉は成就することになっている、それが神の意志だから。」と意訳することができる。つまり受難の出来事は偶然ではない。十字架を見上げることは、まさに神的受動態でしか言い表せない出来事を、受け入れるということにほかならないのだ。
 しかしそのことは、イエスに従う弟子たちにもまだ明らかにされていない。そのため弟子たちは預言者たちを通して人の子について書かれたことのすべてのことが、イエスに於いて実現すると理解できなかったのである。それは神によって隠され、復活後に二人の弟子が語り合っていたときに現れ、彼らの心が開かれるとイエスであることが分かったという出来事に繋がっていく。予言された時には理解されないというのが神のご意志なのであった。
 預言の後、エリコで盲人の癒しが起こる。群衆のざわめきを聞いて、なんの騒ぎかと尋ねる彼に、誰かが「ナザレのイエスが通り過ぎる」と教える。すると彼は「ダビデの子イエス」と叫ぶ。なぜそのように叫ぶことができたか。通り過ぎる人々の声に耳を傾け、イエスという方の噂を聞き、「ダビデの子」から救い主が現われると約束されていたことに重ねたからであろう。
 人々には盲人のことは眼中になく、これからイエスがなさることを見ようと期待していたので、彼を黙らせようとする。20160221 彼は群衆に叱られても止めなかった。この機会を逃したら二度とダビデの子に会えないと本能的に察し叫び続けた。イエスのもとに来た彼に、イエスは彼の思いを確かめるが、見えるようになると願ったのは聞くまでもなく明白であった。イエスが聞いたのは、彼のためではなく群衆のためであり、人々の身勝手な態度に気づかせたのだろう。盲人は見えるようになっただけでなくイエスを見上げた。だから「あなたの信仰があなたを救った。」と信仰による救いを告げてくださったのである。

2016年2月14日 (日)

誘惑に克つ

 (ルカ4:1-13,ローマ10:8b-13,申命記26:5-11)
 荒野の誘惑、悪魔の誘惑と呼ばれている箇所が日課である。悪魔の存在について私たちはどのように考えているだろうか。誘惑する存在だが、決して人が嫌うような存在ではない。では、悪魔は何故存在するのだろうか。旧約聖書のヨブ記では、神が悪魔にヨブを委ねたと記されている。それによってヨブは自分のあるがままの姿を知らされたが、つまり悪魔は私たちにありのままを見せることによって、私たちは逆に神と真に繋がっていくのである。
 さて、荒野にいたのは40日であったが、イスラエルの民がモーセに導かれ荒野に居たのが40年。モーセが十戒をもらうためにホレブ山に過ごしたのは40日。預言者エリヤがアハブ王から逃れて神の山にいたのも40日であった。
 荒野の誘惑はマタイにも記されているが違いもある。①マタイは断食したとあるが、ルカは食事をとらなかったと表現している。自分の意志でなく巻き込まれてたということを表しているのかもしれない。この世の中では、愛すること、平和であり、健康であることが望ましいく、私たちはそれを求めている。しかしそれに対して強く反対するもの(存在)があるというのも私たちは経験するし、聖書もまたそのことを暗示している。だからイエスは自らの意志で断食したのではなく食べなかった(食べられなかった)という表現になる。
 ②ルカは一瞬にして世界を見せる。つまりあらゆる時の支配を意味しており、マタイでは世界の全てという空間的に支配することを意味している。
 ③ルカは神殿での出来事を最後に持ってくることで、エルサレムが中心であり、旅の目的であることを強調する。明らかにそこが勝利と試練の地であることを指し示そうとしている。
20160214  悪魔の誘惑に対して、イエスは聖書の言葉で応える。一方、悪魔も聖書の言葉で誘惑しているのだが不適切な使用であるとイエスは指摘しておられる。私たちがここに来て祈り学ぶのも、み言葉を正しく受け止めるために必要なのである。そして誘惑は強さを試すものであって、弱さを試すものではないことも覚えたい。つまり、自分の力の範囲内のことで誘惑されるであり、自分の力以上の誘惑はないからである。その誘惑に対して聖書の言葉は克服する力を私たちにくれるのである。かつて荒野に罪を負わせて雄山羊を荒野の奥へ追いやった。 (レビ16:20~22)今、イエスが私たちの罪を背負って荒野にいてくださるのである。

身近なところに・・

 教会の庭に老夫婦がお見えになった。「何か御用ですか?」と聞くと、「枇杷の葉っぱを頂けませんか?」とおっしゃる。冬でも青々とした大きな葉を茂らせている教会の枇杷の木。真間川沿いの道路からも、庭の奥とはいえ目につくのだろう。聞けば今回が2回目なのだという。そういえば以前、長女が「どこかのおばあちゃんが、枇杷の葉っぱをくださいと言ってきたので、どうぞと言ったよ」と言っていたのを思い出した。「以前にもらって主人に飲ませたら、とてもお通じが良くなったので、また頂きたいとお願いにきたのです。」とおっしゃり、更に「年寄りなので高い所の葉っぱは危なくて取れないけど、お宅の葉っぱは目の前にあるので助かるのです」と付け加え、ご自身の気持ちをお話しくださった。
 枇杷の葉は薬効があるとは聞いていたものの試してみようとは全く思わなかった私だったが、この機に調べてみた。整腸作用のタンニン、抗菌・抗炎症作用のサポニン、ガンに効果があるアミグダリン、エネルギー増強効果のブドウ糖、下痢止め作用や皮膚炎の痒みを止める成分などもあり、ある古典には「薬王樹」と記されてもいるという。身近なところに立派に成長してい枇杷の木だが、隣家との境にあって迷惑をかけていると気にするぐらいであったが、こんなにも恵みを携えていたなんて、知らなかったし、知ろうともしなかった私。まさに「びっくりポン!」ではないか。このように多くの効用ある枇杷の葉はお茶にしていただくのだというが、どのように作るのか。「葉っぱの産毛をふき取り、1~2センチの大きさに切り天日干し。カラカラになるまで乾燥させたら、ミキサーで砕く。5gほどを市販のだしパックに入れて1~1.5?の水にいれ沸騰させ、さら弱火で10分で完成。」という手順で飲めるという。(以上はHP:豆知識PRESS参照。)
 「神の国は『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:21)イエスはザアカイに「今日、救いがこの家を訪れた。」(ルカ19:9)と言ってくださった。神様の働き、恵みは「いつか、どこか」なのではなくて、実は私たちの身近なところにあるのだと、真間川沿いで会堂も地域の方々に告げている。

2016年2月 7日 (日)

素晴らしいこと

 (ルカ9:28-36,2コリント4:1-6,申命記34:1-12)
 水曜日の聖書の学びではヨブ記を読み進めている。ヨブを襲った突然の苦難に対し、三人の友人がやってきて、ヨブの苦難は何か罪を犯したからに違いないと責め立てる。ヨブは自分には罪など身に覚えがないと反論する。互いに自分の正しさを主張することによってかえって神の思いから離れてしまう。神の出来事についてはあるがままに受け入れることのみが求められている。
 「この話をしてから」と日課は始まるが、十字架と復活の出来事についての話である。それは弟子たちの思いとは違うから、その言葉は受け入れがたいものであっただろう。そこでイエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて山に行く。この三人は特別な位置を占めており、三人だけ連れて行かれることは何か特別なことがあるということでもあった。
 高い山で三人が見たのは、モーセとエリヤが現れイエスと話をしている姿であった。モーセは神の民に律法を伝えた預言者であり、エリヤは9世紀以後北イスラエル王国の預言者の中で代表的な人であり、二人は神の言葉を取り次いだ代表者と見ることができる。それによってイエスの言葉と行為が神の思いの正しい実現であり、十字架の死は神の正しい計画であることを教えている。またその時に顔の様子が変わり、服が光り輝いたとあるが、モーセが律法を携えて帰って来た時に顔が光輝いていたことと同じだったということである。
 目の前に起こった出来事に圧倒されたペトロは、彼にとって素晴らしいと思える提案をする「三人ために幕屋を建てる」と。幕屋は神が民と共に住むために造られるものであって、イエスや預言者のためではない。ましてイエスがこの世に来られてからはイエスご自身が幕屋であって(ヨハネ2:21)、必要ないのである。今、ペトロがなすべきことは、イエスの言葉に耳を傾けること、イエスこそ救い主であることを受け入れることにほかならない。
20160207  輝く姿を想像することは楽しいことである。それとは反対に十字架につけられたイエスを見詰めるのは辛いことでもある。しかし目に見えることに心を寄せてしまうと、何が大切なことなのかを見失ってしまう。神様は「これに聞け」と言われるのだから、イエス様の言葉を聞き、従うことを大切にできる私たちになりたいものである。その姿を神は素晴らしいこととほめてくださるに違いない。

縁起

 2月3日は節分。各地の寺社で有名人が盛大に豆まきをしている様子がニュースで流れていた。近所のお寺でも盛大に節分のお祝いがなされたようで、出かけた人の声が聞こえてくる「縁起物だからネ」と。良いことが起こるような徴であり飾り物のことを「縁起物」という。そのことから「縁起」とは良いことのように思うが、この意味は「いっさいの物事の始まり」であり、吉凶の前兆の意味である。しかし、この解釈も元々の意味とは違うのだという。
 「仏教の基本思想でいう縁起とは、私が先に存在しているのではなく、無量無数の因縁が私となっている、無量無数の因縁によって私が成り立っているという意味であるから、福も内、鬼も内である。福と鬼が私となっているという意味である。」(大谷大学HPより)つまり、良いことという意味でもないし、単なる始まりないし吉凶の始まりでもないということである。だから、節分の豆まきでもらったものは、縁起物ではあるけれども良い物だけが入っているのではなく、悪しき物も一緒に入っているのだと理解しておかなければならないということだろう。本質を見失った解釈に対して、「いつの間にか、縁起が吉凶の前兆を意味する、自分の都合を願う言葉になっいているとすれば、仏教の大切な教えすらも、自分に都合よく理解しようとする人間の本質が見えてくる。」と先のHPは結ばれていた。そのことは、キリスト教でも起こることで、神に対しても人間の都合に合わせようとすることがあり、聖書はそれを「罪」と呼ぶのである。
 「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き出されるマルコ福音書。キリストの出来事には、人の目に適うこと(癒しや奇蹟等)もあれば、目を背けたいこと(裁きや厳しさ等)がある。何よりも十字架の出来事は、誰もが望まないことであったが、そこにこそ真の救いがあり、「人間の本質」とは全く異なる「神の本質」があることが告げられているのである。その意味でマルコ福音書の1章1節は「神の子・・・福音の縁起。」と記して良いだろう。そしてキリストとの出会いが、私たち一人ひとりの「縁起」であり、この「縁起」をこそ大事にしたい。

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