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2016年1月24日 (日)

目を留める

 (ルカ5:1-11,1コリント12:12-26,エレミヤ1:9-12)
 漁師であるシモン、後のペトロとイエスの出会いが今日の日課である。師弟関係の始まりは、通常は弟子になりたい人が師匠に入門の願いをするのだが、キリスト教は逆である。だから、弟子になりたい(牧師になりたい)ということよりも、神の召しがあるかどうかを大事にする。シモンにまさにその召しが起こっているのである。では神はなぜペトロを選ばれたのだろうか。その理由は分からない。それは私たちにとっても同じであって、なぜ私なのですか?と問うても、神は応えてくださらない。ただ、「私なのですね」と答えて従うしかないのである。
 シモンが働く湖のほとりにまで群衆がイエスを追ってくる。シモンはというと、夜通し漁をしたが何も取れず、失望したまま網を洗っていた。イエスは神の言葉を説いて多くの人を得たが、漁師は夜通し漁をしても何も取れなかったという状況がそこにある。そのシモンの船にイエスは乗り込み、その後こぎ出すようにと言う。彼には驚くべき命令と思えた。なぜならイエスは大工であり、漁のことなど知らないはずだからである。シモンは漁師の自分でも獲れなかったのにと言いつつも、イエスの言葉に従った。疑いが信仰へと変わる瞬間である。すると大量の魚がとれたのである。岸に戻るとペトロはイエスを排し、自分から離れるように願う。半信半疑であったこと、大量の魚に自分の罪を見せられたからでもあろう。呼び方も「先生」から「主」に変わっている。仲間たち全員も驚嘆し、イエスを拝した。
 彼らは大量の魚に驚いたが、驚きが彼らをとらえ、驚きに押されてイエスに従っていた。驚きという網が彼らを捕えたということであり、驚きは神が彼らを動かすために送ってくださったものにほかならない。
20160121  神はこのようにシモンを弟子とされたが、先ず神が彼に目を留めてくださったということが全ての始まりであり、その眼差しは私たちにも注がれている。直ぐに理解できるような神の徴はそんなに多くは無いだろうが、目を凝らし、耳を澄ませば、私たちの周りにはたくさんの神の恵みの徴、招きが用意されているのではないだろうか。私たちの人生が神の恵みの徴を確かめる歩みであるとすれば、何と楽しいことであろう。神の恵みに心震わせながら毎日を過ごしていきましょう。

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