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2016年1月10日 (日)

天が開く

 (ルカ3:15-22,使徒言行録10:34-38,イザヤ42:1-7)
 「天が開く」と説教題をつけた。聖書の言葉の引用であるが、掲示板に掲げられると、通りすがりの方はそれを見てどんな風に感じるだろうかと思う。「天が開く」ということは普通には考えられないことだからである。分かりにくい題に「一体どんなこと?」と興味を持ってくだされば良いが、逆に変わったことを言っていると敬遠されては残念だ、と複雑な気持ちで過ごした。
 「天が開く」とは神の働きがこの世で展開されていくこと、神の介入のしるしであり、それを告げるのがヨハネである。そのヨハネのところに「民衆」がやってくる。ルカは大勢という場合に「群衆」、神の働きに関心がある人々を「民衆」と使い分ける。今ヨハネの下に来ているのは「民衆」であり、キリストの到来を期待し、ヨハネを救い主キリストと考えていた人々であって、ヨハネは人々のその考えを見抜いていた。しかしまた彼らは、キリスト到来のために準備された民といえなくもない。
 その彼らにヨハネが語ったのは、優れた方が来るということであるが、それこそ神が天を開かれること、神が介入される道にほかならない。ヨハネとその方のなさることとの違いはなんであろうか。
 ①ヨハネの洗礼は回心の洗であり、イエスは火の聖霊による洗礼である。火は水とは相いれず、圧倒的な洗浄力をもっている。②ヨハネの洗礼は形式的なもので、印として授けられ、洗礼自体に力はない。イエスの洗礼は聖霊が実際に与えられ、人が聖化し罪が許される。だから一度だけのものである。③ヨハネの洗礼は回心して神に立ち帰ることの印であるが、イエスの洗礼は「父、子、聖霊の名前の中」へ人々を導き入れ招き込むものである。
 イエスの洗礼が力強いものであることを説明するために脱穀場の情景が言及される。箕にもみ殻付きの麦をのせてふるいにかけ、その際に息を吹きかけ殻を飛ばしそれを火(聖霊)で焼き払う。もみ殻(罪)と中身(人間)をふるいにかけ、イエスはもみ殻だけを焼いてくださるということになる。
20160109_2  ヨハネが語っているのは警告ではなく、慰めにほかならず、聖霊の浄めは慰めの行為にほかならない。それこそが、天が開き、神が介入なさることの意味である。イエスの洗礼を通して、神が傍らに私たちも呼び寄せてくださり、哀れみと慰めが私たちを包むのである。神があなたの人生に介入してくださっていることを確信し喜びの歩みを続けよう。

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