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2016年1月17日 (日)

恵み深い言葉

 (ルカ4:16-32,1コリント12:1-11,エレミヤ1:4-8)
 ユダヤ人にとっての会堂は身近な存在で、10人の成人男子が望むところにはどこでも建てられ、礼拝以外にも学校となり、またコミュニティーセンターにもなった場所であった。その会堂の礼拝で、イエスに聖書が手渡された。突然ではなく、それまでのイエスがなされていたこと、癒し、悪霊を追い出すことなどを知っていたからである。イエスはイザヤ書61章1節以下を読まれた。ヨルダン川でのイエスの洗礼とつながるものであり、マリアの賛歌において実現することとなる言葉である。つまりイザヤ書を朗読することにより、預言の成就を告げ、ご自身の救い主としての役割を定めておられるのである。
 人々はイエスに目を注いだが、尊敬の眼差しでということではない。そこは故郷であり、人々には「大工の子」として育ってきた彼の姿が浮かんでいたからである。その上で、「別の所で素晴らし奇蹟したのなら、幼い頃から世話をしてやった自分たちにも同じようにしてくれ」という思いがあったことであろう。複雑な思いや感情が交差しているのである。だがそれは、神のご意志からは遠く離れており、もはや信仰とはかけ離れた心情と言ってよい。彼らの思いを聞いてあげることは、神を動かすことになるのだから、イエスはここでは働けないと語られるのである。
 イエスは、神の思いはエリヤの出来事、エリシャの出来事に現れていると言われる。エリヤは異邦人のやもめのところで養われ、神はそのやもめを飢えることのないようにしてくださった。(列王上17:9-16)エリシャはシリア人の軍司令官ナアマンが患っていた重い皮膚病を癒す。(列王下5:1-19)いずれも異邦人の救いのことを語られることで、神の救いはユダヤ人だけではないことを語られたのである。異邦人の救いにまで言及されるイエスの話に、故郷の人々は我慢ならなくなり怒ったのである。
20160117_2  イエスは「主の恵みの年」のことを話される。恐らくヨベルの年のことであろう。7年目に土地に安息を与えて休ませそれを7回繰り返し、50年目には「ヨベル(お羊の角)」を鳴り響かせ、解放を宣言する年とされていた。(レビ25:13-55)これらの規定は、土地も人も本来はすべて神のものであることを人々が確認するためのものであったが、その解放が、「今日」実現したと語られる。そして私たちも、「今日」、恵み深い言葉をいただいているのである。主の言葉を心に刻んで、一週間の歩みに向かっていこう。

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