« 2015年12月 | トップページ | 2016年2月 »

2016年1月

2016年1月31日 (日)

いやしの力

 (ルカ6:17-26,1コリント12:27-13:13,エレミヤ17:5-8)
 今日は「JELC宣教の日」である。アメリカから最初の宣教師シェラー牧師が横浜に入港したのが189年2月25日であり、それを覚えて「宣教の日」と定めている。NHKの朝のドラマが放映されているが、その舞台設定が同じ時代である。ドラマの主人公は大阪の実業家広岡浅子氏をモデルとしており、1849年から1919年の生涯を送り、60才の時には宮川経輝牧師より受洗し、日本女子大を設立した。その人と同じ時代に、アメリカの宣教師たちは日本に来て、私たちの教会の礎を築いてくれたのである。
 シェラー牧師たちは、どんなことがあって日本にいこうと決心したのだろうか。日本に向かう1か月近くの船の中で、何を考えていたのだろうかと思うのだが、もちろん知る由もない。ただ彼らは、。船の中で約一ヶ月、聖書を読みながら、船から降りて大勢の人々のことを想ったかもしれない。勿論、直ぐにイエスのことを受け入れられるとは思っていないだろうが、やがては今日の日課にあるように大勢の人々が集まってくるその風景のようになればと思ったのではないだろうか。
 大勢の人にイエスは「貧しい人々は、幸い。と」語られるが、目を上げ弟子たちを見てと聖書に記されている。恐らくイエスが座って話しておられ、弟子たちがイエスを立って囲むようにしていたのかもしれない。しかしそれは貧しい人々、即ち縮こまっている人々が天上の世界を見上げ、胸を張って生きるようにというメッセージであるのかもしれない。
20160131_3  「貧しい人は幸い」といわれているが、それは「主に従う人は貧しいことがない」ではなく、「神のためにすべてを捨てた貧しい人々は幸い」ということである。パウロは「悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてを所有しています。」(Ⅱコリ6:10)と語っているが、泣く人は、神の王国で新しい家族を与えられ喜び笑うようになるということにほかならない。
 
 今日「JELC宣教の日」に総会を行う。神の言葉を実現していきたい。      (写真は前日の第五土曜コンサート演奏者)

断水

 西日本各地は先週の始めに寒波に襲われ、水道管が凍結し破裂。その結果断水状態が続き困窮しているというニュースが、先週ずっと流されていた。そして断水は今も復旧せず続いているとも聞く。生活のあらゆる場面で水は欠かせない。体や衣服、食物を洗い、人間を始めあらゆる動植物を生かす、つまり命の源となる。だから宇宙に存在する他の惑星で命の存在を探そうとするなら、先ず水の存在を探すことになる、水が命の源だからである。そうそう、宗教的儀式で断食をする際も、水と塩だけは摂って良いことになっている。それほどに大切で源なる水なのだと、断水で苦労しておられる方々のニュースを見ながら思うのである。
 イスラエルの民がエジプトを出てエジプトの兵士たちを葦の海で振り切り、約束の地ユダヤに向かった。彼らが最初に踏み出した地は荒野であって、三日間歩き回ったが人々は水を全く得ることができなかった。やっとマラで水を見つけたが苦くて飲めなかった。民の不平を受けモーセが主に向かって叫ぶと、神は1本の木を示された。そこで木を水に投げ込むと、水は甘くなった。(出エジプト15:22以下)更に進んでマナとウズラを食料としたが、再び水がない場所に来た。飲む水もなくなり、モーセを殺そうとまで殺気立った。神が告げられたのは杖で岩を打つことであった。その通りにすると、岩から水がほとばしり出た。(出エジプト17:1以下)荒野の中で命の源である水を与えられた民は、命を与えてくださるのは神であることを知ったといえる。
 イエスもまた言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)体が水を必要とするように、命は神を必要としているのである。
 5年前の震災のおり、何度か電気が停まりガソリンを求める人で渋滞が起こり大変ではあったが、不便さは感じなかった。水がいつ通りに手に入ったからである。今回のことを機に、凍結対策も整備の一項目になることだろう。断水から一日も早く回復されることを願いつつ。

2016年1月24日 (日)

目を留める

 (ルカ5:1-11,1コリント12:12-26,エレミヤ1:9-12)
 漁師であるシモン、後のペトロとイエスの出会いが今日の日課である。師弟関係の始まりは、通常は弟子になりたい人が師匠に入門の願いをするのだが、キリスト教は逆である。だから、弟子になりたい(牧師になりたい)ということよりも、神の召しがあるかどうかを大事にする。シモンにまさにその召しが起こっているのである。では神はなぜペトロを選ばれたのだろうか。その理由は分からない。それは私たちにとっても同じであって、なぜ私なのですか?と問うても、神は応えてくださらない。ただ、「私なのですね」と答えて従うしかないのである。
 シモンが働く湖のほとりにまで群衆がイエスを追ってくる。シモンはというと、夜通し漁をしたが何も取れず、失望したまま網を洗っていた。イエスは神の言葉を説いて多くの人を得たが、漁師は夜通し漁をしても何も取れなかったという状況がそこにある。そのシモンの船にイエスは乗り込み、その後こぎ出すようにと言う。彼には驚くべき命令と思えた。なぜならイエスは大工であり、漁のことなど知らないはずだからである。シモンは漁師の自分でも獲れなかったのにと言いつつも、イエスの言葉に従った。疑いが信仰へと変わる瞬間である。すると大量の魚がとれたのである。岸に戻るとペトロはイエスを排し、自分から離れるように願う。半信半疑であったこと、大量の魚に自分の罪を見せられたからでもあろう。呼び方も「先生」から「主」に変わっている。仲間たち全員も驚嘆し、イエスを拝した。
 彼らは大量の魚に驚いたが、驚きが彼らをとらえ、驚きに押されてイエスに従っていた。驚きという網が彼らを捕えたということであり、驚きは神が彼らを動かすために送ってくださったものにほかならない。
20160121  神はこのようにシモンを弟子とされたが、先ず神が彼に目を留めてくださったということが全ての始まりであり、その眼差しは私たちにも注がれている。直ぐに理解できるような神の徴はそんなに多くは無いだろうが、目を凝らし、耳を澄ませば、私たちの周りにはたくさんの神の恵みの徴、招きが用意されているのではないだろうか。私たちの人生が神の恵みの徴を確かめる歩みであるとすれば、何と楽しいことであろう。神の恵みに心震わせながら毎日を過ごしていきましょう。

緊急事態

 新年早々、ある夕方に犬の散歩中に起こったこと。いつも行く公園からの帰り道、薄暗い中、裏道を通っていたら、ある家の玄関先で誰かの話し声が聞こえた。携帯電話でも掛けてるのだろうと思い通り過ぎようとした時、また微かな声で「助けてください」と聞こえてきた。どういうことか直ぐには理解できなかったけれども、「助けてください」というのだから、きっと何かが起こっていると思い、道路際の家の門を開けて入ると、壁の後ろに白い服をきた男性がうずくまっているのが見えた。辺りの暗さも増してきていたので、足元の様子などははっきり分からなかったが、近づいた私に気づいて「すみません、急に腰に力が入らなくなって動けないのです。ベルトの辺りを掴んで起こしてもらえませんか」と。犬を一緒に散歩していた仲間に預けて、直ぐに近寄り手を私の肩に回させ、腰のあたりのベルトを掴んで何とか起こそうとした。確かに力が入らないようで、持ち上げるしかなく、よろけながらも立ち上がる姿勢にし、玄関まで連れて行った。男性は足元から私が拾い上げたカバンから鍵を出し、やっと玄関の上がり口に男性を腰かけさせた。この日は奥様も遠方にお出かけ中とかで、本当に助かりましたと、額の傷をぬぐいながらお礼の言葉をいただいた。帰り際には少し立てるように回復されていたので、「お大事に」と言って私も帰路についた。
 それにしても、突然病魔に襲われることは誰にでも起こりうる。直ちに治療してもらえるか、しばらくは気付かれないかでその後の運命が分かれる。最近は心臓が止まった時のためにAED(自動体外式除細動器)が用いられ、生き返ったということもあるだろう。教会周辺には病院や学校があるから、緊急事態の時は借りに行けばと思っていたが、秒単位で応急処置が必要だと思うと、教会に備えておくことも決して無駄ではないと思える。「神様に心を癒され、体の不調にはAED」というのも現代の教会の姿かもしれない。
 名乗らなかった私だったが、後日元気になってお礼に来てくださった。特徴ある髭とメガネと犬のお陰で「教会の牧師さん」と分かったのだという。歩く広告塔を意識しながら、犬に散歩に連れて行ってもらいます!

2016年1月17日 (日)

恵み深い言葉

 (ルカ4:16-32,1コリント12:1-11,エレミヤ1:4-8)
 ユダヤ人にとっての会堂は身近な存在で、10人の成人男子が望むところにはどこでも建てられ、礼拝以外にも学校となり、またコミュニティーセンターにもなった場所であった。その会堂の礼拝で、イエスに聖書が手渡された。突然ではなく、それまでのイエスがなされていたこと、癒し、悪霊を追い出すことなどを知っていたからである。イエスはイザヤ書61章1節以下を読まれた。ヨルダン川でのイエスの洗礼とつながるものであり、マリアの賛歌において実現することとなる言葉である。つまりイザヤ書を朗読することにより、預言の成就を告げ、ご自身の救い主としての役割を定めておられるのである。
 人々はイエスに目を注いだが、尊敬の眼差しでということではない。そこは故郷であり、人々には「大工の子」として育ってきた彼の姿が浮かんでいたからである。その上で、「別の所で素晴らし奇蹟したのなら、幼い頃から世話をしてやった自分たちにも同じようにしてくれ」という思いがあったことであろう。複雑な思いや感情が交差しているのである。だがそれは、神のご意志からは遠く離れており、もはや信仰とはかけ離れた心情と言ってよい。彼らの思いを聞いてあげることは、神を動かすことになるのだから、イエスはここでは働けないと語られるのである。
 イエスは、神の思いはエリヤの出来事、エリシャの出来事に現れていると言われる。エリヤは異邦人のやもめのところで養われ、神はそのやもめを飢えることのないようにしてくださった。(列王上17:9-16)エリシャはシリア人の軍司令官ナアマンが患っていた重い皮膚病を癒す。(列王下5:1-19)いずれも異邦人の救いのことを語られることで、神の救いはユダヤ人だけではないことを語られたのである。異邦人の救いにまで言及されるイエスの話に、故郷の人々は我慢ならなくなり怒ったのである。
20160117_2  イエスは「主の恵みの年」のことを話される。恐らくヨベルの年のことであろう。7年目に土地に安息を与えて休ませそれを7回繰り返し、50年目には「ヨベル(お羊の角)」を鳴り響かせ、解放を宣言する年とされていた。(レビ25:13-55)これらの規定は、土地も人も本来はすべて神のものであることを人々が確認するためのものであったが、その解放が、「今日」実現したと語られる。そして私たちも、「今日」、恵み深い言葉をいただいているのである。主の言葉を心に刻んで、一週間の歩みに向かっていこう。

寄り添う

 23971人、この数字は昨年自殺した人の数である。6年連続で減少しており、25000人を割ったのは18年ぶりなのだという。減少しているのは喜ばしいことであるが、それでも2万人以上の人々が、自らの手で死ぬことを選んだという事実は重い。自殺の動機は健康問題、経済・生活問題、家庭問題が多く、東日本大震災関連での自殺は22人に及んだという。10代、20代の自殺も毎年3千人を数えるという。交友関係、いじめ、DV、ストーカーといった理由ではないかと想像すると、何とか周囲から救いの手が差し伸べられなかったのかと悔しい思いがする。
 自殺に向かう心理は、死を選ばざるを得ない状況に追い込まれているからだと推測されるという。ひとりで悩み、ひとりで苦しみ、ひとりだから「自死」という結論にたどり着く。その結論が何をもたらすのかも、きっと見えなくなってしまっているのだろう。そんな一人ひとりの苦悩を想像すると胸が詰まるようである。
 昭和初期、戸山教会(現日本基督教団信濃町教会)を創設したT牧師は、様々な軋轢に悩みうつ病を患い48歳で自殺した。信仰者が、しかも牧師が自殺するとはどういうことかと問われたものであった。私は思うのだが、信仰者もそして牧師も人間である以上、弱さの故に人間的解決方法に身を委ねることはあるだろう。牧師とて100%の信仰は持ちえないし、「うつ」という病気が加われば、自殺の道を選んでしまうかもしれない。クリスチャンに「喪中欠礼」はないとある牧師はいう。しかし、悲しみを悲しみとしてあるがままに受け止め、それを「喪中欠礼」と表現して伝えることは信仰にそぐわないことでは決してない。むしろ寄り添ってくださった方への報告であり、人として生きていることの証しではないかと思う。クリスチャンなら喜びに包まれるべきだから「喪中欠礼」はないと言えるのだろうか。信仰者は神に与えられた命であることを知っているのだから決して自死を選んではならないと断定できるのだろうか。結果ではなくて、信仰者に必要なことは寄り添ってくださる方、イエス様を思い起こすかどうかがいつも問われているのではないか。
 自殺予防で大切なことは何でも話せる関係をもつことだという。私たちには主がおられることを、どんな時にも思い起こす信仰に感謝したい。

2016年1月10日 (日)

天が開く

 (ルカ3:15-22,使徒言行録10:34-38,イザヤ42:1-7)
 「天が開く」と説教題をつけた。聖書の言葉の引用であるが、掲示板に掲げられると、通りすがりの方はそれを見てどんな風に感じるだろうかと思う。「天が開く」ということは普通には考えられないことだからである。分かりにくい題に「一体どんなこと?」と興味を持ってくだされば良いが、逆に変わったことを言っていると敬遠されては残念だ、と複雑な気持ちで過ごした。
 「天が開く」とは神の働きがこの世で展開されていくこと、神の介入のしるしであり、それを告げるのがヨハネである。そのヨハネのところに「民衆」がやってくる。ルカは大勢という場合に「群衆」、神の働きに関心がある人々を「民衆」と使い分ける。今ヨハネの下に来ているのは「民衆」であり、キリストの到来を期待し、ヨハネを救い主キリストと考えていた人々であって、ヨハネは人々のその考えを見抜いていた。しかしまた彼らは、キリスト到来のために準備された民といえなくもない。
 その彼らにヨハネが語ったのは、優れた方が来るということであるが、それこそ神が天を開かれること、神が介入される道にほかならない。ヨハネとその方のなさることとの違いはなんであろうか。
 ①ヨハネの洗礼は回心の洗であり、イエスは火の聖霊による洗礼である。火は水とは相いれず、圧倒的な洗浄力をもっている。②ヨハネの洗礼は形式的なもので、印として授けられ、洗礼自体に力はない。イエスの洗礼は聖霊が実際に与えられ、人が聖化し罪が許される。だから一度だけのものである。③ヨハネの洗礼は回心して神に立ち帰ることの印であるが、イエスの洗礼は「父、子、聖霊の名前の中」へ人々を導き入れ招き込むものである。
 イエスの洗礼が力強いものであることを説明するために脱穀場の情景が言及される。箕にもみ殻付きの麦をのせてふるいにかけ、その際に息を吹きかけ殻を飛ばしそれを火(聖霊)で焼き払う。もみ殻(罪)と中身(人間)をふるいにかけ、イエスはもみ殻だけを焼いてくださるということになる。
20160109_2  ヨハネが語っているのは警告ではなく、慰めにほかならず、聖霊の浄めは慰めの行為にほかならない。それこそが、天が開き、神が介入なさることの意味である。イエスの洗礼を通して、神が傍らに私たちも呼び寄せてくださり、哀れみと慰めが私たちを包むのである。神があなたの人生に介入してくださっていることを確信し喜びの歩みを続けよう。

データを読む

 新しい一年が始まった。教会は1月から12月までを「年度」の区切りとしているので、新しい年の始まりは、新しい「年度」の始まりとなり、教会総会をこの時期に行う。役員会や教会の行事を振り返り記録をまとめ、新たな年の宣教を考える。そのためには礼拝の出席人数や教会に関わってくださった方々の状況を把握し、会計の決算を行った上で予算立てをする。そして新しく選ばれた役員会が一年の舵取りを行うことになる。
 総会資料のために記録をまとめていくと、いろいろなデータが集まる。2004年度分からは本部の集計表にも記載されて送られてくるので、10年前の状況と比較しながら考えることもできる。ちなみに10年前、2005年度のデータを拾ってみる。全会員数は258名(内現住会員数81名・18歳以上60名)、礼拝出席者平均58.7名、献金収入9,893,887円・繰越金収入33,783円・建築献金756,078円、支出9,969,943円・繰越金0円・建築繰出し756,078円とある。2014年度はどうか。全会員数は266名(内現住会員数82名・18歳以上58名)、礼拝出席者平均38名、献金収入9,406,332円・繰越金収入713,805円・建築献金1,630,254円、支出9,099,377円(繰越金1,020,760円・建築繰出し1,630,254円)となっている。(2015年度は未確定。)
 10年間で多くの方が召されたが、新しく加わった方もあり会員数はほぼ横ばい。しかし礼拝出席者は三分の二に減少。献金収入も支出も減少しているが、建築献金が増え、繰越金もできるようになった。専門家がみたら、このデータだけでもいろいろなことを見出してくれるのだろう。10年前とは社会状況も違っているし、私を含めて皆が10才、齢を重ねたのだから変化があって当たり前。問題はその変化を克服できていないことだと、データを見詰めながら思う次第。
 イエスの時代はデータなどという概念は無かっただろう。だから聖書の数字は正確とはいえないものが多いし、ましてイエスご自身はデータに依って行動された訳ではない。でも主は多くの人の心の悲しみをたくさん知って、寄り添う歩みをなされたのではなかったか。
 沢山のデータを読みつつも、人の心を大切にしつつ宣教していきたい。

2016年1月 3日 (日)

導きを信じて

(マタイ2:1-12,エフェソ3:1-12,イザヤ60:1-6)
 新年の挨拶状を頂く。喪中の挨拶も昨年末に何人かから頂いた。キリスト教は喜びの宗教だから、「喪中にて欠礼」ということはあり得ないという人もいるが、人として悲しいものは悲しいのであり、それを表すことは周囲に気を遣う表現と思える。その上で、「喪中欠礼」もあるが、「いつものように生きる」ということも許されるのではないか。
 クリスマスの出来事を知らせたのは、マタイによれば東の方からきた占星術の博士たちである。東の国とはユダヤの人々が捕えられた国で、ユダヤ人にはなじまない占星術の学者である。俗っぽい言い方をすれば「ユダヤの人々がけしからぬ国と退けていた国の、たかが星占いの連中」ということになる。それが事実かどうかということよりも、敢えてマタイが彼らを登場させたのはなぜかを考えたい。
 「賢者の井戸」というクリスマスの話がある。干上がりそうな井戸がある。そこにラクダに乗った3人の立派な人が隊商を引き連れてやってきた。彼らはかつて東の国の博士であったが貧しく、寄り添い生きるしかなかった。ある日遠くの空に星が輝くのをみた。特別なことが起こったことを彼らは悟り、出かけて行く。「偉大な王が産まれ、自分たちがそのことを知らせたら、きっとご褒美がもらえるに違いない。もうみじめな生活からは解放される」と話し合う。星に導かれてやって来た町で「お城はどこか、立派なお屋敷は?」と探すが見当たらず、星は道端の岩屋の上に止まる。「そんなはずはない」と彼らはその家に入ることなく立ち去る。更に星を探すが見つからない。悲しみと落胆の中、井戸にやってくる。その時には神様も彼らを赦してくださっており、井戸の中をのぞき込むとそこに星が映っていた。再び星をに導かれ岩屋の赤ん坊に跪く。その子は彼らの頭に手を置き祝福すると、彼ら栄誉にみたされ、それぞれの国で王になった。彼らは井戸にお礼をしなかったが、謙虚さを思い出させてくれた井戸に、今、再びたくさんの水をラクダに運ばせてお礼に来たのである。
20160103  最初に岩屋をみて立ち去った時の彼らは、導かれて来たにも関わらず神をも自分の思い通りにしようという存在であったが、神は彼らを見捨てず再び導いてくださった。悔い改め導きを信じ、自分のもっているものを主に委ねる生き方へと変えられていった。マタイの描く博士たちも、自分たちの生計を成り立たせているものを捧げたのである。導きを信じ新しい年を歩んでいこう。

陽だまり

 例年になく穏やかな年越しであった。いつもなら自宅の仕事部屋のストーヴを全開している時期なのに、殆どスイッチを入れることもなく過ごしている。毛布生地のポンチョを羽織っているとはいえ、異常気象の影響といえるのではないだろうか。暖冬の年は雪が多いとデータにあるようだが、さてこれからの冬はどうだろう。
 我が家の飼い犬ウルも随分年を取り、12月末で12歳になった。人間の年齢に換算するとおよそ64才なのだという。ついに61才の私より年寄りになってしまったが、私の目にはいつまでも小さい頃のままだ。そんなウルだが、最近、陽だまりができると、用意されたクッションを引っ張り出し、そこで「日向ぼっこ」の時間を過ごしている。分厚い毛皮を身にまとっているけれども、寄る年波には勝てないのかも。ともあれあちらこちらとクッションを移動させながら、くつろぐ姿を通して陽だまりの気持ち良さを私に教えてくれている。
 「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると弟子たちが近くによって来た。」(マタイ5:1)山上の説教(垂訓)と言われている箇所の冒頭の節である。人々が大勢押し寄せてきたので、皆から見え聞こえるようにと少し高い所に登られたというのである。腰を下ろされたイエスの下に弟子たちが、人々が集まってくる。イエスの周りにはいつも人がいた。特徴的なことは、当時は男性社会であり、女性や子どもが登場することは珍しい。しかしイエスの周りには女性や子どもも集まり、「イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子どもたちを連れて来た。」(マタイ16:13) 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。」(ヨハネ6:9)等の箇所から、イエスご自身も分け隔てなく受け入れておられたことが分かる。イエスの周りは、いや、イエスご自身がまるで「陽だまり」のような存在なのだろう。
 修復工事を終えてから三年がたつ。工事中、近所の方が心配そうに「教会が無くなるんですか?」と声を掛けてくださったり、「いつ終わるんですか?」などと尋ねてくださったことを思い出す。この地域にとって、教会が「陽だまり」のような存在になれたら嬉しい。
 2016年の歩みが始まりました。今年もどうぞ宜しくお願いします。

« 2015年12月 | トップページ | 2016年2月 »