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2015年11月22日 (日)

感じる心

 (マルコ13:24-31,ヘブライ13:20-21,ダニエル7:9-10)
 本日の礼拝は召天者記念日として守っている。天に召された方々という意味であるが、主が用意してくださった部屋に帰るという意味で帰天者と表現できる。しかし召天者には、もう一つの意味があると気付かされた。その事の前に、日課を見てみる。ダニエル書の引用であるが、ユダヤ人にとってはイエスはキリストではなくガリラヤの漁師でしかないので、ダニエル書の「人の子」の到来は未だないのである。しかし「人の子の到来」を教会は「キリストの再臨」と受け止めてきた。マルコでは10:32節以下の受難予告においても、イエスが自分のことを「人の子」と表現している。その上で今日の日課では「人の子」は選ばれた人たちを呼び集めると言っているが、選ばれた人は弟子たち、使徒たち、そして教会であることを意識してのことであろうから、マルコが属している群れ(自分たちの群れ)は、キリストに選ばれたのだと語るのである。
 「召命(しょうめい)」という言葉がある。日本語の読みでは「証明」や「照明」とも読み取れるのであり、私の最初の理解もその程度のものだった。しかし「召命」とは命を召されることであり、従う者の覚悟を求められているのである。だから、私たちは天に帰ることを約束された者でもあるし、弟子として召され、この地上で生きる者でもある。だから「召天者」とは、死んで天に召されるというだけでなく、今、神様に召されている者ということも含まれていると思えてならない。
 そのようにして選ばれ、召されている私たちを、世の終わりの時には天使が駆け巡って呼び出しにくるという。その者たちを呼び集めるということは、換言すれば今は散らされているということにほかならない。弟子たちもそれを聞いたて、「では何時なのか」と気になったというし、最初の信徒たちの関心事でもあったということにほかならない。
20151122_2  苦しみからいつ解放されるのか。イエスは「父だけがご存じ」だと言われたのだから、身体のことを含め明日のことは神にお任せすることと教えておられる。最初の教会が、この言葉にどれほど励まされたことだろうか。そのことは今の私たちにも同じである。テロが起き、隣国との摩擦が絶えず、若者たちの未来に戦争に向かわせられるのではないかと不安がある。不安があればあるほど、「神の言葉は決して滅びない」という言葉を思い起こし日々を送りたい。

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