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2015年11月29日 (日)

お願いする

 保育園で餅つきが行われた。年に一度の行事であるが、家庭でも地域でも行われることがなくなった行事でもある。昔は我が家でも年の瀬に近所の方と一緒に餅つきをしていた記憶がある。ただし、子どもの出番は全くなく、大人たちの活気ある姿を遠巻きに眺めるだけであった。つき上がった餅は鏡餅と切り餅用に丸められ、その日の内に口に入ることはなかったように思う。なぜなら、新年を迎えるための餅つきだったのだから・・・。
 餅は元々神に供える食べ物とされていた。もちには「望」という意味があり、家族みんなが幸せで望みが叶えられるようにと願って、餅をついて神仏にお供えしたという。鏡餅は年頭に来る歳神様にお供えし、正月の間歳神様はその鏡餅に宿り、お供えが終わった後には鏡開きをして、歳神様の生命力をいただくのだという。古くからの伝統的なしきたりの多くは、このような素朴な信仰が背後に伺える。いつの時代にあっても「神的な存在」に畏怖を覚え、自然に願う心を抱く存在が人間なのだと言えるのではないか。
 創世記の主張もそこにある。「我々は何故神に願うのか。我々は神に作られたから神に願うのだ」と。そして「我々を造られた神は、ヤハウェであり聖書を通して知ることができる方だ。」というのが私たちの信仰に他ならない。パウロはアテネに行った際、町の至る所に偶像があるのを見た。そしてアテネの人々にキリストを伝える際にこうの述べた、「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物を造られた神が、その方です。(中略)すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」(使徒言行録17章16節以下参照)
 今秋からクリスマス。子どもたちは、いや大人もいつにもましてお願い事が増える時期。願うことができる神を知っているという幸いを、クリスマスの時に特に覚えたいものだ。ただし、叶うかどうかは「神様がお決めになること」なのである。
 餅つき後の体の痛み、歳を重ねるごとに辛さが増す。若い時のような体力をと願っても、こればかりは神様も叶えてくださるまい。

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