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2015年11月 8日 (日)

愛され、愛す

 (マルコ12:28-34,ヘブライ7:24-28,申命記6:1-9)
 旧約と福音書の日課に「聞け(シェマ)」という言葉がある。これに始まる部分はイスラエルでは「シェマ」と呼ばれて最も大切な律法とされてきた。更に旧約では「これをしるしとして自分の手に結び」とあるが、神に属していることを表すしるしであった。今日の福音書に登場する律法学者も、シェマを大切にし、体のどこかにシェマを結びつけていたかもしれない。
 イエスは彼との問答に於いて、第一の掟、つまり神を愛することと第二の掟、即ち隣人を愛することを語られ、この二つにまさる掟は他にないと語られた。
 ここで言われている愛のことだが、日本語の成り立ちでは「頭をめぐらせ心を振り向き見る人・心臓・足」を表しており、現代日本語では「好き、好む、かわいがる」等の意味で多用されて、聖書の「愛」の真意からは遠い距 離で使用されている。イエスが、神への愛と隣人への愛は一体のものであると言われる時、それは人間的愛情・心情ではなく、深い関係ということにほかならない。
 そのイエスの答えに対して、律法学者は神の唯一性を強調したが、イエスは神と隣人への愛が祭儀よりもはるかに重要であると指摘しているのである。その上でイエスは彼を、「神の国から遠くない」と称賛するが、微妙な違いも感じておられる。それは彼が「神は唯一である」という唯一性をのみ強調していること、神についの理解を深めるあまり「思い」を「知恵」に変え、その結果、先ず優先すべきこととして「祭儀規定」と主張していることである。イエスは「ほかにない」と相対化しておられるだけであって、律法学者とは近いようで大きな隔たりとなっている。イエスよりもラディカルになれないのである。彼が生きてきた世界は祭儀優先であったから、他のいっさいの規定に優先するのが「愛」と言うイエスの思いを受け入れることができないのである。彼にとって祭儀規定こそが世界の全てであるかもしれないが、祭儀規定は全ての掟の一部にすぎないのである。彼はイエスから遠くはないが決して近くはないということが分かる。ではその距離を埋めるには何が必要なのか。「折々のことば」
20151108  「『死んだ』者よりは『死なれた』者の方が、やはり、叶(かな)わないのである。つらいのである。」(朝日新聞、折々のことばより。) そのことからすれば、イエスは律法学者に対して、きっと思っておられたに違いない、「遠くないが、近くもない。その距離を埋めるのは、あなたが、神に愛されていることに気づくことだよ」と

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