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2015年11月

2015年11月29日 (日)

心躍らせる出来事

 (ルカ19:28-40,Ⅱテサロニケ3:6-13,エレミヤ33:14-16)
 クリスマスの時を迎えた。しかし一般にはクリスマスのことは知らずに、楽しいイベントとして過ごしている。ただ、「クリスマスイベント」は、行う人が主人公になるが、私たちが伝えたいクリスマスは、自分が主人公になるのではなく、自分の主をお迎えする時だということである。
 福音書の日課の前にはザアカイの話があり、ムナのたとえがある。そしてエルサレムへ向かわれるのである。エリコからエルサレムへは約6時間の道のりであり、イエスは先に立って進まれたとある。予告されていたエルサレムへ向かう道であるが、まさに主が来てくださることを告げる箇所である。
 私の主となる方をお迎えすると冒頭に述べたが、決して奴隷となるというのではなく、私のすべてを委ねるてその方に従う生き方を選ぶということである。
 イエスはエルサレムに向かって、先に立って進まれたというのがルカ福音書であるが、マタイ・マルコでは、エルサレムは最終目的ではないような印象がる。ガリラヤで自分に会うと言っておられるからである。ルカにおいては、エルサレムは最終目的地であり、弟子たちは聖霊を受けるまでそこに留まることになっている。弟子たちにとっても同じでエアっただろうし、そこで「王となられる所」だと意気込んでいたのではないだろうか。
 さて、オリーブ山は都から東へ3.2キロである。終末的な意味を持つ場所だが、ルカにはその雰囲気はない。ロバを手に入れたのは、あらかじめ計画していたのではなく、神の知恵によって事をなしたということを私たちに理解させようとしているのだろう。神聖な仕事のために、それ以前には他の仕事に使われたことのなかった動物が使われた。これからの仕事は、神聖なこと、神に関わることということを伝えようとしているのである。
20151129  弟子たちは子ろばを手に入れ、イエスをその上に乗せ、主の名によって来たと叫んだが、群衆の大歓声はここにはない。彼らは気まぐれな群衆(やがては死刑にした群衆)ではないのだ。またダビデやその王位とは無関係で、平和の王であると伝えたいのである。それは極めて利己的に、「王と呼んで、ローマ人を怒らせるようなことをするな」というファリサイ派の人々とは異なっているのである。エルサレムの人々には、心を騒がせることであったが、それは主を迎え入れないからである。しかし主が来られるという出来事を迎え入れられるなら、日々の歩みが平安の内に進められるに違いない。

お願いする

 保育園で餅つきが行われた。年に一度の行事であるが、家庭でも地域でも行われることがなくなった行事でもある。昔は我が家でも年の瀬に近所の方と一緒に餅つきをしていた記憶がある。ただし、子どもの出番は全くなく、大人たちの活気ある姿を遠巻きに眺めるだけであった。つき上がった餅は鏡餅と切り餅用に丸められ、その日の内に口に入ることはなかったように思う。なぜなら、新年を迎えるための餅つきだったのだから・・・。
 餅は元々神に供える食べ物とされていた。もちには「望」という意味があり、家族みんなが幸せで望みが叶えられるようにと願って、餅をついて神仏にお供えしたという。鏡餅は年頭に来る歳神様にお供えし、正月の間歳神様はその鏡餅に宿り、お供えが終わった後には鏡開きをして、歳神様の生命力をいただくのだという。古くからの伝統的なしきたりの多くは、このような素朴な信仰が背後に伺える。いつの時代にあっても「神的な存在」に畏怖を覚え、自然に願う心を抱く存在が人間なのだと言えるのではないか。
 創世記の主張もそこにある。「我々は何故神に願うのか。我々は神に作られたから神に願うのだ」と。そして「我々を造られた神は、ヤハウェであり聖書を通して知ることができる方だ。」というのが私たちの信仰に他ならない。パウロはアテネに行った際、町の至る所に偶像があるのを見た。そしてアテネの人々にキリストを伝える際にこうの述べた、「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物を造られた神が、その方です。(中略)すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」(使徒言行録17章16節以下参照)
 今秋からクリスマス。子どもたちは、いや大人もいつにもましてお願い事が増える時期。願うことができる神を知っているという幸いを、クリスマスの時に特に覚えたいものだ。ただし、叶うかどうかは「神様がお決めになること」なのである。
 餅つき後の体の痛み、歳を重ねるごとに辛さが増す。若い時のような体力をと願っても、こればかりは神様も叶えてくださるまい。

2015年11月22日 (日)

感じる心

 (マルコ13:24-31,ヘブライ13:20-21,ダニエル7:9-10)
 本日の礼拝は召天者記念日として守っている。天に召された方々という意味であるが、主が用意してくださった部屋に帰るという意味で帰天者と表現できる。しかし召天者には、もう一つの意味があると気付かされた。その事の前に、日課を見てみる。ダニエル書の引用であるが、ユダヤ人にとってはイエスはキリストではなくガリラヤの漁師でしかないので、ダニエル書の「人の子」の到来は未だないのである。しかし「人の子の到来」を教会は「キリストの再臨」と受け止めてきた。マルコでは10:32節以下の受難予告においても、イエスが自分のことを「人の子」と表現している。その上で今日の日課では「人の子」は選ばれた人たちを呼び集めると言っているが、選ばれた人は弟子たち、使徒たち、そして教会であることを意識してのことであろうから、マルコが属している群れ(自分たちの群れ)は、キリストに選ばれたのだと語るのである。
 「召命(しょうめい)」という言葉がある。日本語の読みでは「証明」や「照明」とも読み取れるのであり、私の最初の理解もその程度のものだった。しかし「召命」とは命を召されることであり、従う者の覚悟を求められているのである。だから、私たちは天に帰ることを約束された者でもあるし、弟子として召され、この地上で生きる者でもある。だから「召天者」とは、死んで天に召されるというだけでなく、今、神様に召されている者ということも含まれていると思えてならない。
 そのようにして選ばれ、召されている私たちを、世の終わりの時には天使が駆け巡って呼び出しにくるという。その者たちを呼び集めるということは、換言すれば今は散らされているということにほかならない。弟子たちもそれを聞いたて、「では何時なのか」と気になったというし、最初の信徒たちの関心事でもあったということにほかならない。
20151122_2  苦しみからいつ解放されるのか。イエスは「父だけがご存じ」だと言われたのだから、身体のことを含め明日のことは神にお任せすることと教えておられる。最初の教会が、この言葉にどれほど励まされたことだろうか。そのことは今の私たちにも同じである。テロが起き、隣国との摩擦が絶えず、若者たちの未来に戦争に向かわせられるのではないかと不安がある。不安があればあるほど、「神の言葉は決して滅びない」という言葉を思い起こし日々を送りたい。

過剰反応

 今年5月、大分市の高崎山自然動物園で生まれた子ザルに、誕生したばかりの英国王室の王女「シャーロット」の名前を付けたところ、たくさんの批判が寄せられたことがあった。結果として大分市は名前を変更しなかった。ある小学校の学芸会、「桃太郎の劇の配役は桃太郎5人、キジ・サル・イヌは2人ずつの6人、鬼1人」。白雪姫の劇の話もある。「7人の白雪姫に7人の王子、3人の小人、魔女はいなくてナレーション進行」になり、何の劇か分からなくなったとか。
 モンスターペアレントと呼ばれる存在のことを聞く。ネット時代の現代は、発信された情報に批判が一気に高まる事例が増えている。所謂、ネット炎上と呼ばれる事態になり、プライベートなことまで誹謗中傷されるケースも生じてしまう。そのために批判されることを恐れて先に中止してしまったり、意見を止めてしまったりする過剰な反応も生じてしまう。先日もクレームの電話をかけまくり、全国1200店舗に謝罪と金品を要求していた女性が逮捕されるというニュースがあった。この女性が悪いことは間違いないのだが、店舗側も店の評判を落とされ商売に影響がでるのではないかと過剰に反応して要求に応えてしまったのだという。様々な配慮は必要だが、過剰に反応してしまうと自由闊達な表現が損なわれ、「みんなが主役、主役だけが良い」とする偏向社会が生まれてしまうのではないかと危惧するが・・・。
 「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。」(ゼカリヤ9:9)平和の福音を告げ知らせるために来られた主に対して、指導者たちは民衆の熱狂をみて過剰に反応してしまった、「自分たちの立場が危うくなる」と。そして遂には民衆の熱狂を利用して、イエスを十字架の刑に処することに成功してしまった。過剰な反応は人の心も、そして神をも見失わせてしまうのである。
 「君たちに憎しみという贈り物はあげない。君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる。」テロで最愛の妻を亡くしたジャーナリストの文である。いつものように過ごそうとするフランスの人々に、心から哀悼の意を表したい。

2015年11月15日 (日)

明日のために

 (マルコ12:41-44,ヘブライ9:24-28,列王上17:8-16)
 日本製の飛行機の初飛行のニュースが流れた。計画が始まったのは7年前だという。飛行機好きな人には大きなニュースだったかもしれないが、私は関心がなかったのでそのことは知らなかった。ただ、7年前に私たちの教会には大きな出来事があった。会堂が登録有形文化財に登録されたのである。10月23日に正式に登録され、会堂の修復保存という動きになっていった。7年前ですら私たちの記憶はそんなものだから、50年も前のことならどうだろうと思う。しかし、50年前のことであっても、自分に関わりがあること、大きな変化があることなら、きっと記憶にあるだろう。入学、就職、結婚、事故、死別等・・・。
 日課の出来事は小さな出来事である。何故、この出来事が人々の中に記憶されていったのか。マルコは何を基準にこれを福音書の中に記したのだろうか。
 日課の前の箇所には、律法に精通しているはずの律法学者が、神のみ旨からは最も遠いところにいたという批判がある。神への捧げものは大きければ大きいほど神に喜ばれると考えていたからである。それはイエスの思いからは最も遠いところにあるもので、だから全てをささげた貧しいやもめのエピソードがここに置かれている。最小のものではあっても、彼女は最大のものを捧げた、何故なら彼女は生活費のすべてを捧げたからである。そのことに誰も気づかなくとも、神は見ておられ、その献金がどれほど彼女に大きな意味を持っているかを知っておられるのだと告げているのである。
 彼女が捧げたものは自分自身であった。それは信仰の決断に通じるものである。マルコがこの小さい出来事を書き残した意味がそこにある。信仰の決断をした彼女のことを、書き残したのである。
20151115  マルコ福音書の著者マルコ自身がキリスト者として生き、かつキリスト者として明日を生きようとしている。明日を生きるキリスト者たちに、マルコはこの女性の捧げる姿を示して、たとえ小さくとも神がご存じであることを知らせたかったのではないか。明日のことを神に委ねて生きた女性のことを知らせたかったのである。だからこの出来事は決して小さくなく、弟子たちの群れの明日の方向性を決める、大切な大切な出来事だったのである。

夢を目標に

 日本で制作された初のジェット旅客機MRJの初飛行が、11月10日に行われた。MRJとは「Mitsubishi Regional Jet」の略で、要するに地域型の小型ジェット機である。開発した会社は半世紀前の世界大戦のおり、名機と言われた「零戦戦闘機」を造った会社である。戦後、日本は飛行機開発を禁止された。1952年のサンフランシスコ条約により一部の航空機製造が認められ、「YS-11」という航空機が製造されたが、これも1973年には製造が終了し、2006年をもって機体の利用も無くなり、国産の飛行機が空から消えた。
 MRJ計画の発端は2002年に経済産業省が発表した「30席から50席クラスの小型ジェット機開発案、所謂『環境適応型高性能小型航空機案』」計画である。ただしこれは参画する企業が自己責任で開発を推し進めるという条件がついていた。前述した会社(三菱重工業グループの三菱航空機)は2008年に開発に着手し、7年かけて遂に初飛行に到達したのであった。300万以上の備品を必要とする飛行機製造だから、数多くの人が関わってきたことだろう。初飛行を見守る工場の人々の映像などを見ていると、会社の利益のためにというよりも「夢の実現のために」関わってきたのだと思えてならなかった。ラグビーW杯の日本代表キャプテンのM・リーチ選手が「夢を目標に」と言っていたことを思い出す。そう、「国産飛行機を空に」という夢を目標にしてきた成果が、初飛行を生んだのだと思えてならない。
 「あなたたちが待望している主は突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。」(マラキ3:1)キリストが来られる500年前にマラキ書は記された。イエスの時代の人々には主の到来はただの「夢」になっていたかもしれない。しかし主は来てくださった「神にできないことは何一つない」(ルカ1:37)からだ。間もなく迎えるクリスマスの出来事は、「単なる夢と諦めず、夢を目標に変えてチャレンジし続けるなら神が背を押してくださる」という約束を聞く時でもあろう。
 実用化されるまで約2500時間のテスト飛行を行うと聞く。やがて私も九州の田舎へ帰省の時には、MRJに搭乗できるだろうと今から楽しみにしていたい。

2015年11月 8日 (日)

愛され、愛す

 (マルコ12:28-34,ヘブライ7:24-28,申命記6:1-9)
 旧約と福音書の日課に「聞け(シェマ)」という言葉がある。これに始まる部分はイスラエルでは「シェマ」と呼ばれて最も大切な律法とされてきた。更に旧約では「これをしるしとして自分の手に結び」とあるが、神に属していることを表すしるしであった。今日の福音書に登場する律法学者も、シェマを大切にし、体のどこかにシェマを結びつけていたかもしれない。
 イエスは彼との問答に於いて、第一の掟、つまり神を愛することと第二の掟、即ち隣人を愛することを語られ、この二つにまさる掟は他にないと語られた。
 ここで言われている愛のことだが、日本語の成り立ちでは「頭をめぐらせ心を振り向き見る人・心臓・足」を表しており、現代日本語では「好き、好む、かわいがる」等の意味で多用されて、聖書の「愛」の真意からは遠い距 離で使用されている。イエスが、神への愛と隣人への愛は一体のものであると言われる時、それは人間的愛情・心情ではなく、深い関係ということにほかならない。
 そのイエスの答えに対して、律法学者は神の唯一性を強調したが、イエスは神と隣人への愛が祭儀よりもはるかに重要であると指摘しているのである。その上でイエスは彼を、「神の国から遠くない」と称賛するが、微妙な違いも感じておられる。それは彼が「神は唯一である」という唯一性をのみ強調していること、神についの理解を深めるあまり「思い」を「知恵」に変え、その結果、先ず優先すべきこととして「祭儀規定」と主張していることである。イエスは「ほかにない」と相対化しておられるだけであって、律法学者とは近いようで大きな隔たりとなっている。イエスよりもラディカルになれないのである。彼が生きてきた世界は祭儀優先であったから、他のいっさいの規定に優先するのが「愛」と言うイエスの思いを受け入れることができないのである。彼にとって祭儀規定こそが世界の全てであるかもしれないが、祭儀規定は全ての掟の一部にすぎないのである。彼はイエスから遠くはないが決して近くはないということが分かる。ではその距離を埋めるには何が必要なのか。「折々のことば」
20151108  「『死んだ』者よりは『死なれた』者の方が、やはり、叶(かな)わないのである。つらいのである。」(朝日新聞、折々のことばより。) そのことからすれば、イエスは律法学者に対して、きっと思っておられたに違いない、「遠くないが、近くもない。その距離を埋めるのは、あなたが、神に愛されていることに気づくことだよ」と

群集心理

 前日の雨天が思い起こせない程に晴れ上がった11月3日、教会バザーが行われた。開始前には多くの方が並んでくださり、昨年以上の賑わいにホッと胸を撫で下ろした。今年は道路側の外壁を修理したので、いつもは自転車置き場にしていた会堂前のテラスを日用品売場に変更し、「バザーをやっている」と分かるようにした。それによって道行く人にも来場していただければと考えたからだ。時間前に並んでくださったお客さんと話していると、「毎年、楽しみに来ています。ケーキが美味しいのよネ、丸いあのケーキはあるの?」と聞かれて「アーモンドケーキはもう作ってないんです」などと会話しながら、この日を楽しみにしてくださっている方々の気持ちをいただけ、前日までの準備の苦労もなくなるようだった。
 11時の鐘を合図に入場が始まる。待ってくださっていた方々もほぼ半分に分かれて、お目当てのケーキ売場や日用品売場に先を争って向かわれるのが例年の開始直後。今年もそうなると何も疑わずにいたのだが・・・全く様子が違った。「ただ今より開始します」と告げたとたん、人々は会堂入口に向かわずに左手バルコニーの日用品売場へ!「ケーキが美味しい」「ケーキを買うのが楽しみ」と言っておられたあのご婦人たちもケーキのことなど忘れたかのように、一目散に左手の日用品売場へ!!その様を呆然と眺めるしかなかったのだが、冷静になって思い返すと、並べられた日用品を観ている内に、「あれ、安くて良いわネ」という心理が多くの人に働き、始まりと同時に日用品へ向かう人の勢いに、他の人にも群衆心理が働いて、そちらに向かわせたということではないだろうか。ともあれ、「群衆」といっても3~40人のこと、会計も一時混乱したけれども、最後まで楽しく過ごせた一日であった。
 「群衆はますます激しく、『十字架につけろ』と叫び立てた。」(マルコ15:14)群集心理が働いた場面である。個人の倫理観も価値観も一気になくしてしまう心理が働いている。熱狂的なキリスト教もあるが、私は好まない。群集心理が働き、いつしか神をその集団の思いのままの存在にしようとしてしまうからだ。何よりも主は、お独りで十字架に向かわれたではないか。だからこそ群集心理の働く熱狂さではなく、黙想と祈りの中で神と向き合い、み言葉を聞いていきたいと思うのである。

2015年11月 1日 (日)

転換点

 あるコマーシャルのこと。7~8歳くらいの子どもたちが映し出される。そしてナレーターの声、「誰が知っているでしょう。この子たちの誰かが世界を変えていくかもしれないことを。海をきれいにしたり、国のリーダーになるかもしれないことを。ある子は歴史に名を刻むアーチストになったり、学校を作ったり、新しい世界を探検したり、発明家になるかもしれないことを。今は未だ誰が世界を変えるかわからないけど、私たちはそんな可能性を秘めたみんなの力になり続けたいのです。」と。どの子にも未来はあるし、その子に相応しい未来が訪れるようにと願わずにはいられない。だが、子どもたちが素敵な未来に到達するまでには、いくつかの転換点が訪れることだろう。ただし、その転換点を知るのは、何十年もたってからのことになるが!
 1505年のある日、法学を学び始めた一人の青年が、帰郷のためにシュトッテルンハイムの野を進んでいた時、突然の雷雨に襲われ、そして稲妻が下り彼は地面になぎ倒された。死の恐怖の中で「聖アンナ様、お助けください。私は修道士になります!」と叫んだ。その青年こそルターであった。この地に今、「歴史の転換点」と刻まれた石碑が建てられているというが、当のルターはもちろん知る由もない。
 彼の落雷と誓願の出来事が「歴史の転換点」とまで刻まれるようになったのは、彼が気付いた「神の義」の意味にある。善い行いをなすことで神に義とされるのではなく、神ご自身がなされたことが義なのだということであり、それは当時の教会が販売していた「免罪符による義」とは全く異なるものだということであった。そこに到達した彼は、1517年19月31日に95か条からなる討論の呼びかけを行ったのである。この提題は広く社会に広まり、遂にはこの日がカトリックという大きな権力からの解放、宗教の転換点となったからこそ、落雷の誓願が「歴史の転換点」となったのだ。
 自分の人生を振り返ると、「あの時が」という転換点はいくつかある。換言すれば転換点とは今は分からないということでもある。だとすれば、年齢に関係なく「転換点」はいつでも起こりうるということだろう。人生を振り返る老後を迎えた時に、「あの時に選んで良かった」と受け入れられるように転換点を過ごしたいものだ。

堅固な土台

 10月31日は宗教改革記念日、東教区でも記念礼拝が行われた。説教者はルター研究の第一人者徳善義和先生で「変わらないもの、変わるもの」という説教題であった。宗教改革の出来事を考えるとき、変えてはならないものと変わっていくものとを再考した時でもあったといえる。聖書でいえば、原典であるギリシャ語聖書(ヘブル語聖書)は変わらないが、翻訳したものは変わるものであるといえる。事実ルーテル教会でも、文語訳と口語訳、そして新共同訳聖書と承認しているが、翻訳の違いによる変化がたくさんあるという具合だ。ともあれ、ルター自身が強調したことは、大切なこととどちらでも良いこと(変わるもの)をはっきりするということであっただろう。
 日課はイチジクの木への呪い、その話の間に神殿崩壊の預言が記される。二つの話を関連付けようとしてこのような構成にしたのである。つまり、枯れたイチジクの木の出来事は神殿への裁きの象徴と捉えられるのである。この出来事は福音書の中で唯一の呪詛奇蹟である。イチジクの季節ではないのだから実がないのは当たり前なのに、イエスはなぜ呪いの言葉を発したのだろうか。その季節ではなかったということを敢えて記しているのは、神に立ち返る時期を逸してしまっているというこを意味し、実をつけていないイチジクの木によってイエスの到来に対する備えが全くできていないことを示している。また根元から枯れたいちじくは、根元から腐っている神殿、本来の機能を失ってしまっている神殿を象徴しているのだろう。
 祭りの時に各地から神殿にやってくる人々は犠牲を用意するが、たいていは不合格で持ち込めないものとされた。しかし、神殿内で買えば検査は受けないで済む。ただしその値段は2~30倍し、利益は利権者大祭司アンナス大祭司のものとなっていた。イエスは、神殿が聖なる場所であることを示され、更には神殿の崩壊を預言されたのである。またそのことを通してイエスは弟子たちに「信仰と祈りと赦しについて」教えられた。つまり、神殿の祭儀よりもまず第一に神へ信頼すること、疑わないで信じることが大切である。そして神にささげる祈りは「願い、感謝、賛美」であり、疑いがはいり込む余地はない。
20151101_3  「信仰のみ」と言いつつも、そこで生ききれない私たちがいる。そのような私たちだが神は変わらずに見つめ、導いてくださっており、その神の支え、聖書の言葉を土台として歩んでいこう。

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