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2015年10月25日 (日)

幸いなる者に

 (マタイ5:1-6,1コリント1:10-18,ヨシュア24:14-24)
 おびただしい群衆を見て、イエスは山に登られる。ルカ福音書では、マタイとは逆で、人々から離れた場所におられたが平地に下ってくると群衆がやって来て、そこで話をされると逆の状況がある。変わらないのは、人々がイエスに徐々に期待を持ち始め、イエスのもとにくる人々も多くなってきたということである。その一方、指導者たちが大きくしたのは期待ではなく敵対心であった。
 さて山に登り座ったイエスのもとに弟子たちがやってくる、教えを聞くためであった。弟子たちに座って教えをなされるイエスだが、「マタイがここに描いている以上に、素朴に、厳粛に、使徒団の創立を語ることはできないであろう。」と、ある神学者は解説している。神学校の始まりの姿がここにあるようである。このような素朴な集まりが弟子たちの始まりであった。彼らは使徒集団を形成しようとか、教会を作ろうなどと意気込みがある訳でもなく、ただひたすらにイエスの言葉に聞きたいとやってきたのである。そしてこれが使徒集団を使徒集団としているものであり、教会を教会たらしめるものにほかならない。そこで語られた言葉は、彼らの心にきっと届いたことであろう。
 ルターが司祭になった時の教会は、全てがラテン語で行われていた。そこには椅子などなく、また床の上に座るようなこともなく、立ち見の観客であった。ミサで何が行われ、何を唱え語られているのかを理解する必要はなかった。人々はただ見ているだけで良かった。教会にとって民衆は、脇役であり添物でしかなかったからだ。イエスが弟子たち、民衆に寄り添っておられたとすれば、1500年後の教会は、「言葉」を伝えない、民衆を疎外し見捨てていた教会になっていたのである。
20151025_2  イエスは座って弟子たちに「言葉」をくださった。神の約束が与えられるゆえに、幸いであると言ってくださった。貧しいだけでなく、更に心、霊までも貧しくさせられている人々こそが幸いだと語ってくださった。激しい苦痛が襲う人生だが、苦痛は神の助けが私たちと出会う時の前触れだと言ってくださった。弟子たちは迫害の中で、この言葉に支えられ、キリストの救いを宣べ伝えに出かけて行ったことだろう。
 ルターはヴィッテンベルグで大学教授をしていた時、街角で酔いつぶれていた人を叱ったが、酔っ払いが免罪符差し出して「あっしにはこれがありまさぁ」と言われて衝撃を受けたという。教会が脇へ追いやった人々に、真の救いの喜びを与える必要を覚えたのである。神こそが(免罪符がではない)、幸いなる者と語ってくださっているのである。私たちもそこのことを心に刻みたい。

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