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2015年10月 4日 (日)

種を拾う

 (マルコ9:38-50,ヤコブ4:13-5:8,民数記11:24-30)
 マルコによる福音書の著者であるマルコは、弟子集団の次の世代の人である。彼自身の経験(主の十字架の出来事の時、彼は逃げ出してしまった)が、主の思いを巡りながら福音書としてイエスの福音を整えた。だからこの福音書には、弟子たちがイエスの教えを受け止めきれていないことが正直に書き残されている。ただ、弟子たちを弁護するとすれば、最初から彼らは弟子であったのではない。たくさんの失敗をしながら、イエスが何をしておられるのかを見て、徐々に弟子たる姿に変えられていったということである。勿論そのことは弟子たちだけに留まらず、いつの時代にも起こることである。
 イエスに従えなかった弟子たちだが、それが顕著に表れたのが今日の日課である。「だれが一番偉いか」と議論していた弟子たち(周辺にいた自分を含む)の思いが、如何にイエスの心から遠く離れていたことか。
 そのような議論をしている弟子たちに、イエスは自分の名を語って癒しを行っている人を通して、見せかけの従順より「イエスの名に力がある」と単純に信じて行動することの方が、むしろ大事だと言われているのではないだろうか。
 そのようなイエスの思いとは逆に、弟子たちは「イエスの名を語っている人々の行為を止めさせようとした」のである。「名を使っていながら従っていない」という不快感が感じられるし、直前で「誰が偉いか」と議論していた弟子たちの姿と重なってくる。彼らの中にはっきりとエリート意識があるのだ。マルコがこの物語を置いた理由もそこにあるのではないか。
 イエスの答えは、やめさせてはならないということであった。「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければだれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(1コリント12:3)とパウロが語っているように、
20151004  イエスの名によって祝福したその同じ口からイエスに対する呪いは出てこないというのである。大切なことは、誰が偉いかということではなく、どんな犠牲を払っても、救いを達成しなければならないという点に強調がある。そして、従う者には、弱い立場の者への配慮と、罪に対する断固とした態度が求められているのである。
 小さいものへのいたわりと罪に対する断固たる態度、そして救いをこそ求め続ける信仰、主が蒔いてくださったそのような信仰の種をこそ、私たちは拾いつつ信仰の歩みを続けたい。

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