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2015年9月27日 (日)

すれ違う悲しみ

(マルコ9:30-37,ヤコブ4:1-10,エレミヤ11:18-20)
 今日の福音書の日課はイエスご自身が二度目の受難の予告をされた箇所である。最初の予告と比べると、「長老、祭司長、律法学者」というサンヘドリン(最高法院)を構成するメンバーへの言及はなくなる。何故書かなかったのだろうか。今日の箇所の前後をみてみると、主の変貌の出来事があり、更に悪霊を追い出せない弟子たちが描かれる。予告の後には、理解しないままに、誰が偉いかを密かに話している弟子たちがいる。つまり、イエスはご自身の受難について話しておられるのに、弟子たちは全く理解しないし、耳を貸そうともしていないことが分かる。つまり、この予告は、弟子たちに向けられているのである。換言すれば、マルコは弟子たちの無理解を強調しているといえる。「十字架の出来事は誰によって起こったのか。ほかでもない、あなたたちの無理解が、主を十字架につけたのだ」と
 十字架の出来事は無関心でいてはならないのである。弟子たちの無理解を記すことで、マルコは逆にそのことを伝えようとしているのである。だから、サンヘドリンの構成メンバーではなく、「人々」と書くのである。
 マルコはまた受難の予告だけでなく、「だれが一番偉いのか」という議論をしたことも強調する。また、十字架を担いで歩かれるイエスのもとから逃げ出したマルコは、こうして福音を書き記しながら、自分たちが生前の主にどんな態度で接していたかをしっかりと書き記すことで、主がいかに深い孤独の中で十字架に向かわれたのかを伝えようとしており、また孤独の中で成し遂げられた十字架の出来事、罪の贖いが、自分に深く関わっているのだということを伝えようとしているのである。
20150927_5  十字架の出来事を自分のためにと理解するなら、イエスにどのように従えばよいのだろうか。イエスは「すべての人に仕える者となりなさい」と語り、幼子を真ん中に立たせ、抱き上げられた。弟子たちは直前に「だれが一番偉いか、能力があるかと」議論していた。そんな弟子たちにイエスは幼子を示したのである。当時は律法を守れないからと子どもは半人前としか見られていなかったが、弟子たちの中心に立たせてしかも抱き上げることによって、神の前では弟子たちの価値判断は何の妥当性もないと示されたのである。人は仕えることよりも仕えられることを求めがちだが、イエスはそれを逆転され、価値観の根本的な変革、神の目からみた人間のあるべき姿を示さし、弟子たちの無理解を悲しみつつも、最後まで彼らを(私たちを)慈しみ、十字架を目指されたのである。

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