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2015年9月13日 (日)

思いを越えて

 (マルコ7:31-37,ヤコブ1:19-27,イザヤ35:4-10)
 本日の日課には地名が記されている。なかなか実感できないので、私たちの居住地に置き換えて考えてみる。ガリラヤ湖の位置を市原市と茂原市の間とすると、ティルスは市川、シドンは柏市辺りとなる。イエスの一行は市川から東の九十九里、南下して勝浦を経て再度、市原と茂原の間のガリラヤ湖に戻るというような地理的状況である。とても不思議な行程であるが、敢えてそのような旅をされたとすることで、癒しの出来事の重要な意味が分かる。
 ところで福音書にはイエスが癒しをなされる時、いろいろな仕方が記されている。先週の日課の癒しにおいては、悪霊に悩まされている娘に会わずに母親の信仰によって癒してくださった。また、単に手を触れるだけで癒されることもあったし、長血の女性の時は服に触れただけで癒されたし、6章の最後では服に触れた者はみな癒されたともある。今日の箇所では、癒しのための具体的な所作がある。両耳に指を入れ、唾をつけて舌に触れたと。恐らく当時の治療に必要な所作をイエスもなさったということだろうが、「エファタ(開け)」と語ることで、魔法・魔術とは違うということを示されたのだとマルコは強調しているのであるこうして、イエスは人々の期待にお答えになった。人々に分かる言葉、そして権威ある言葉で癒しを行われたのである。
 旧約の日課はイザヤ35章であり、終末におけるメシアの到来の預言である。イエスもはっきり意識しておられた。だから、「耳の聞こえない人」「口の利けない人」の癒しを行われたのである。しかも、実際に癒されたのは一人であるけれども、37節の「人」は複数であって、複数で書かれたイザヤの言葉に対応させ、メシアの到来を告げようとしているのである。
20150913_2  ところで最初にイエスの旅路について、わざわざ遠回りをされた不思議な行程であると述べた。イエスの宣教の始まりに荒野の40日の出来事があるが、それは出エジプトの40年と重ねられている。いま再び異邦人の地を巡り、そしてエルサレムへの道を始めようとされるが、これは捕囚の出来事を遠回りすることで表し、こののちエルサレムに向かうことは「捕囚(罪)」からの解放なのだと知らせようとしているのである。第二の「バビロン捕囚からの解放」である。そして「この方のなさったことは全て素晴らしい」という言葉を重ねることによって、天地創造の最後に神が語られた「それは極めて良かった」という言葉に重なっていくのである。洗礼によって新しい命に生きることを赦されていることに感謝し、日々を過ごしていこう。
 13日の教会(写真は10日朝の教会前道路です。)

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