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2015年9月20日 (日)

命を失わないために

 (マルコ8:27-38,ヤコブ2:1-18,イザヤ50:4-11)
 間もなく宗教改革500年を迎える。ルターが当時の教会に投げかけた「95か条の提題」は、発明された印刷機があったから世界的な出来事になったといわれる。しかし印刷技術がその当時に発展していなくても、人間の心に残る大きな出来事であり、解放の出来事として広がっていったことであろう。
 ユダヤの人々もメシアを待望していた。ヘブル語「マシーアハ」は油注がれた者と意味であり、その言葉がなまって「メシア」となったが、ダビデもソロモンも所謂「マシーアハ」である。イザヤ45章1節に登場する王キュロスも「マハーシア」と呼ばれており、捕囚の民となって100年後の538年にユダヤ人を解放し、祖国帰還を許可した王であった。その時から500年、諸国に支配され続けてきたユダヤ人が、解放のメシアを待望し続けたとしても不思議ではない。
 今日の日課で、イエスは弟子たちに自分のことを人々がどう見ているか、また弟子たち自身がどのように見ているかと尋ねられる。人々の見方は、6章14-15節にある答えと同じであった。しかしペトロは弟子を代表して、「あなたはメシアです。」と告白する。しかしそのメシア像は、500年前のキュロス王の姿でしかないことをイエスはご存じであったので、「だれにも話さないように」と言われたのである。
 ところで、この問答が繰り広げられた場所をマルコは北方に退く途中としている。異教的な雰囲気の中でペトロの信仰告白をイエスは引き出している。初代のキリスト者たちがそうであったように、キリスト教の宣教がなされる時、常に問われることだと言われている。もちろん私たちの告白も異教の中で行われているのだと語りかけてくれているのである。
 その際に、イエスにどのように従うかが求められる。十字架を背負ってイエスに従うことであり、イエスのために命を失うものは、それを救うと約束の言葉が語られている。マルコ福音書が書かれた時代は、まだまだ激しい迫害の中であった。その中で、イエスの受難の予告、命の約束の言葉は、初期のキリスト者たちに強く励ましの言葉として伝わり読まれたことであろう。
20150920  ペトロの告白、イエスの受難予告、イエスに従うことという今日の日課は、マルコ福音書のクライマックスである。より厳しい時代背景の中で人間の思いではなく神の思いを第一として生きることにより、十字架を背負う勇気を頂けるのである。

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