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2015年9月27日 (日)

法とは

 21日の朝刊に、33年間娘の出生届を出さなかった女性に、戸籍法違反で過料5万円の決定を裁判所が出したという記事が載った。「女性は1980年、夫の暴力から逃れるため、籍を抜かないまま、九州地方から神奈川県内へ移り住んだ。82年に新たな交際相手との間に娘が生まれたが、民法772条に『婚姻中に懐胎した子は夫の子と推定する』との規定があるため出生届を出さなかった。夫との離婚は昨年成立。娘が戸籍がないことに悩んでいたため、今年6月に役所へ出生届を出した。戸籍法は出生後14日以内に届けるよう規定しており、自治体から期間超過の通知を受けた簡裁が『届け出期間を過ぎた正当な理由がない』として過料の決定を出した。」(21日朝日新聞より)正当な理由とは何かと改めて思う。出さなかったのではなく、出せなかったのであり、女性にとっては最も正当な理由ではなかったか。
 出生届を出さなかったのは自分を取り戻し生きるためであり、所在を知られないことを優先せざるを得なかったからであろう。しかしそのために負わなければならなかったのが、「娘は無国籍」という現実であった。私の長女は間もなく32歳になる。この女性の娘さんとほぼ同世代である。長い年月、少なくとも私は娘の国籍のことで苦労をしたことは皆無であるが、同じ年月をその母娘は、前夫に知られるのではないかという恐怖、国籍がないことによる様々な困難の中に生きてきたのである。そんな33年間の母娘の苦悩に思いを馳せると、「そのような苦悩を負わせる法を放置し続ける国に責任はないのか」と思えてならないのである。この国に同じ時に生まれ、同じ国籍の両親をもちながら、国籍を与えられないということが起こりうるこの国の在り方は、間違っていないのだろうか。憲法違反という声を無視しても国家の平和という大義名分を押し通すのだから、無国籍とならざるを得なかった子どもの人権回復に「法にはないが」といって無罪とすることは出来ないのか!!
 「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」(マルコ2:27)安息日に麦の穂を摘んだ弟子たちをファリサイ派の人々は批判したが、そもそも律法は誰のためにあるのかとイエスは言われた。人が人として生きるために法があることを、どんな社会でも、そしていつの時代であっても忘れてはなるまい。

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