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2015年9月 6日 (日)

愛されて、元気

 (マルコ7:24-30,ヤコブ1:2-18,イザヤ35:1-3)
 今日の日課は「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた」と始まる。ガリラヤ湖の西岸ゲネサレトを去り、北西の地中海沿岸の町、異邦人の地ティルスへ移動された。60~70キロの距離であろうが、移動中のことは何も記されていない。しかし、ティルスに着き「ある家に入り、誰にも知られたくないと思っておられた」とあることから、道中の至る所で飼い主のいない羊のような人々が、イエスの姿を求めてきたと想像することができる。
 この福音書を書いたマルコについても、いろんなことを想像することができる。マルコは自分のことを、「捕えられようとして亜麻布を捨てて裸で逃げた」(14:51)と書き残している。その彼が、イエスの痕跡を辿る旅をしたと想像すると、意外に楽しい。「自分は最後の時に逃げてしまったけれど、主は多くの人の、羊飼いのいない羊のようなあの人々に、この異邦の地でも優しく手を差し伸べ、寄り添おうとされていたなぁ」と、彼は思い起こしていたかもしれない。
 休暇をいただき、北海道の道東に出かけてきた。釧路の納骨室(メモリアルルーム)には、私が牧師になる前に一番影響を受けた合田牧師と古戝牧師が並んで飾ってあった。帯広では、子どもたちが幼かった頃の我が家族の痕跡を辿り、浦幌や池田の信徒の方を訪問しながら30代の自分の働きを振り返る時をいただいた。痕跡を辿ることは、決して悪いことではない。過去をきちんと見つめることなくして、素敵な未来に向かうことはできないし、見つめなければ、再び私たちは犯してしまった罪を繰り返してしまうからである。
 マルコもイエスの痕跡を辿りながら異邦の地で起こったことを知った。「だれにも知られないようにしておられた」のにイエスに気付いて集まる人々、その中に汚れた霊につかれた娘をもつ女性がおり、その娘を癒された話を聞いた。
 「悪霊を追い出してほしい」と願う女性に対してイエスは、「まず」と言われている。先ずという以上はその次という言葉が当然予測されるのであり、救いが異邦人へ及ぶことが暗示されている。だから女性もその意味を察知し、機知にとんだ答えをする。イエスも「その言葉を聞いた以上、もう何も聞く必要はない」と彼女の娘を癒してくださったのである。
 マルコは異邦の地でイエスの歩みを辿りながら、イエスに愛されることが元気になる力であることを知ったに違いない。愛されていることを思い起こして元気を出していきましょう。

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